2006年01月03日

私とロシア ―一地方政治家の視座―

輪島幸雄

 私のロシアヘの想い、アプローチは3段階に分けられるように思う。
 ロシア(勿論、当時は社会主義国の盟主、ソ連といわれていたが)への最初の関心を抱いたのは中学校1年の時だった。トルストイの「復活」を読んだ後の印象からである。その後、社会科に興味を持ち、その関連で読んだ資料から、第二次世界大戦時、ナチの猛攻下のもとでも、レニングラード(現サンクトペテルブルク)市民がエルミタージュ美術館の収蔵作品を戦禍から搬出するため最大限の努力を払ったことを知って、その度合が一層高まったのである。
 従って、その後はいつの日か、「広大なシベリア平原を横断し、ウラル山脈を越え、ヴォルガ・ドン河を渡り、モスクワを経てエルミタージュ美術館のあるレニングラードにたどりつきたい」との願望を抱くに至っていた。
 いわば、この時期が第1段階だったと思っている。
 第2段階は、1984年の最初の訪ロ以来、10回程のほぼ前半の時代である。
 ポイントは、86年7月28日、ゴルバチョフ・ドクトリンを受けて外国人第1号のウラジオストク入りのチャンスを生かし、函館-ウラジオ両市の交流に着眼したことだ。
 その後、この構想推進の母体として函館日ロ親善協会を誕生させ、90年6月にウラジオ・ミッションを新潟に先きがけて派遣することに成功し、91年1月には、3度目のウラジオ訪問で大規模な市民訪問団の受け入れを要請して実現させた。このレールに乗って翌92年夏、函館・ウラジオ両市の妨妹提携が実ったのである。
 また、航空路開設等の懸案事項についても、92年8月イルクーツクで開催された第5回日ロ極東・北海道交流会議において、ロシア極東と北海道を結ぶ直行便の開設を両政府に働きかけようと提案し採択されている。
 こうした横路自治体外交をサポートする動きのなかから、同年11月開催された日ロ2国間航空協議によって、函館-ユジノサハリンスク間の航空路開設が決まったのである。
 ところが、ウラジオヘのアプローチが市・経済界による発想とリーダーシップによるものでなかっただけに、対ユジノ線開設も「地元は無関心・戸惑い」と報道される始末だった。
 従って、このルートの開設がサハリン石油・天然ガス開発関連の後方支援基地誘致等にプラスになるとして歓迎したのは横路知事と私ぐらいだったのではないかと思われる。(95年選挙でも、このテーマを公約として掲げた候補者は私以外なかったことでも明白だからだ)。
 尚、93年の当初予算で対ロシア貿易等の発展を目指し、地域間競争に打ち勝つための施策として貿易振興資金の創設を提案し成立させている。
 第3段楷は、中国東北3省と北朝鮮に視野を広げ、現在、取り組みの最中ということである。
 ウラジオから図們江、清津に至るゴールデン・デルタ地帯の持つ魅力は、このエリアが世界的に残されたニュー・フロンティアであるとの評価から、21世紀の世界の食糧基地・三江平原の開発に対する世界銀行の借款、図們江開発構想に対する国際開発機関のアプローチと関連国際会議の開催、琿春-ザルビノ港間鉄道敷設など、一部のプロジェクトが動き出す状況にあるからである。
 こうしたゴールデン・デルタ地帯の持つ一大ポテンシャルに対する関心と共に、90年4月、函館港のソ連貨物船応接室で聞いたポリメル海運大臣のコメントによって、函館港の持つ地理的有利さに対する再認識と、為政者たるもののヴィジョンの遠大さに感服させられたことである。
 ポリメル大臣は言った。「いま、わが国は経済混乱期にある。が、やがて資源大国であるわが国は貿易相手を太平洋に求めるだろう。その際、われわれに最も魅力ある港は函館港である。それをこの目で確かめるために今朝函館港に入港したのである」と。
 こんな経緯のなかで、この夏、今度は中国側から図們江と琿春開発の状況を視察のため北東アジア経済調査断団に参加したところである。

「会報」No.2 1996.11.30

投稿者 hakodate_russia : 11:55 | コメント (0)

ウラジオストクの都市と建物

玉井哲雄

 ウラジオストクのロシア科学アカデミー極東支部極東諸民族歴史・考古・民族学研究所で開かれた国際会議(内容は会報1号の沢田和彦さんの報告を御覧ください)に、函館日ロ交流史研究会のグループの一員として参加し、念願であったウラジオストクの町を実際に歩いて見ることができました。函館との比較という観点からウラジオストクの都市と建物について見たこと、そして考えたことの一端を簡単に報告させていただきます。
 ウラジオストクは都市としてはかなり大きいのですが、函館西部地区と雰囲気はよく似ているなというのが第一印象です。山が迫った場所にある港湾都市で坂が多いという共通点はよくいわれていますが、広い街路が整然と通されて路面電車が通り、公園のような空地が多くて広々としているという点も忘れてはならないと思いました。これは城下町に代表される日本の都市や、中世以来のヨーロッパの諸都市とは異なった、近代的な開発ないし計画によってできあがった都市としての共通性を示していることになります。
 建物を見ますと、スヴェトランスカヤ通りを中心とする表通りには、どっしりとした煉瓦造で3階以上の建物が並んでいて壮観であり、建築様式としても多彩であることに驚かされました。例えば、中央郵便局は本格的な西洋古典様式で建てられているのに対して、グム百貨店の外観は西洋古典様式を基調としているものの、内部に入るとロシアのビザンチン様式を基礎に、19世紀末に西欧で流行ったアールヌ-ボー様式の飾りが施されているという具合です。これらの多くは革命前の20世紀初め頃に建てられたものですが、革命後の建物にも実に様々な様式があることもわかりました。函館では1921(大正10)年の大火後に建てられた3階建てが連なる銀座街に、西洋古典様式の一つであるバロック様式とみられる装飾がありますが、ウラジオストクに比べればはるかに簡素です。ただ、20世紀に西欧から離れた地に開発された二つの都市の建物に、どのような意味でわざわざ西欧の様式が用いられたのかという問題は比較検討してみる価値がありそうです。
 また表通りから一歩裏手にまわると、かなり古そうな木造建物もかなり残っています。これらは函館の木造建物ともよく似通った雰囲気であり、その様式がウラジオストクという地域独自のものなのか、広くロシアの民俗建物の系譜の中で理解できる様式なのか、函館に特徴的な和洋折衷様式の成り立ちとの比較からも興味深い問題であると思いました。
 ほぼ同時期に、ヨーロッパからみて辺境である場所に建設された港湾都市であるウラジオストクと函館ですが、その建物、そしてその都市景観を丁寧に比較・分析する事によって、二つの都市の特質をよりあきらかにできる手がかりは十分に得られそうな気がしました。次の機会にはもっとじっくりと時間をかけて見たいと考えています。

「会報」No.2 1996.11.30

投稿者 hakodate_russia : 11:40 | コメント (0)