2005年09月19日
リュシコフ大将亡命事件
A.トリョフスビャツキ
第二次世界大戦直前、ソ連と日本の間に起こった多数の出来事の中で、満州国経由で日本に亡命したリュシコフ大将の事件(1938年)は特別な地位を占めると言えるであろう。ソ連内務人民委員部G.P.U.極東長官であったリュシコフ大将が日本に保護を要請したことや、リュシコフが語ったソ連国内の状況について、日本のマスコミは大々的に伝えていたが、ソ連国内ではこの事件について最近まで一切知らされていなかった。
スターリンが1930年代に引き起こしたテロルは、ソビエト・エリートの代表者が西側に逃亡したり、出張中帰国せずに西側に残ってしまった主な原因である。「リュシコフ事件」もこのコンテキストの中で見直すべきものだと思う。一連の逃亡事件の中で、逃亡先を日本に選んだのは、この事件だけである。
リュシコフの証言や手記によると、逃亡先は地理的条件から選ばれたのであった。彼はソ連国内の事情や赤軍幹部、政治的指導部、一般市民を犠牲にする粛正について、貴重な証言をした。越境逃亡の動機について、彼は第一に、粛正の波から自分の身を守りたいこと、第二に、ソビエトやほかの人民を犠牲にしたスターリンの独裁と戦うためであるとした。
ここで指摘しなければならないのは、リュシコフはソ連の弾圧機関(内務人民委員部G.P.U.)において重要な地位(極東地域では最高責任者)を占め、1937年の後半から1938年の前半の極東地域での大量テロルの責任者の一人であったことである。そしてこの男の手に、ソ連極東政策のすべての鍵が握られていた。リュシコフの手記や証言は1938年8月号の「外事月報」に載っているが、これが一部か、全部かははっきり分からない。
しかし、これだけでも、リュシコフが、ソ連情報機関の日本や周辺諸国における活動の原則、やり方について詳しく語ったことが明らかになった(具体的な名前などについて触れてはいなかったが)。
興味深いことに、リュシコフは極東地域におけるソ連指導部の軍備についてを証言している。ソ連と国境を接する満州国での関東軍の軍備について、ソ連(ロシア)のマスコミや著作物によって、多くが語られてきた。最近までソ連は日本の侵略に対し、適当な措置を取ろうとしている被害者として描かれていた(ハサン湖、ノモンハン事件)のも現実である。
おもしろい逆説だが今、ロシアのマスコミ関係者、学界の一部もスターリンのソ連は1930年代に隣国(フィンランド、バルト三国、ポーランド、ルーマニア)に対して侵略者であったと認めているが、極東においてはスターリンの外交は正しかった(北方領土を含めて)と強調している。
リュシコフが手記で指摘したように、スターリンの冒険的な政策は、ソ日関係に直接的な影響を与えて、最終的な目標として、当時日本の侵略の対象となった弱体化しつつある中国を自分の影響下に置くことにあった。公開裁判でしきりにドイツのファシズムや日本の帝国主義にふれたのは、自己の戦争準備や、ドイツのファシズムや日本の帝国主義のスパイとされた元の同僚たちに対しての弾圧を正当化する目的であった。リュシコフはこのような裁判はスターリンによってでっちあげられた、と世界にアピールした。
1938年以降のリュシコフの運命は、今のところわかっていない。沿海地方の地域学者Ⅴ.K.ドンスコイが指摘したように(『ロシアと太平洋地域』、1996、1号)、1945年8月に日本軍司令部の命令に従って暗殺されたのかもしれない。リュシコフはソ連から逃亡したのではなく、特別の任務をもって派遣されたという意見もあるという。日本の指導部はリュシコフの証言をどのように受け止めたのか、それは対ソ連政策にどのような影響を与えたのか、という問題もこれから詳しく検討する必要がある。
いずれにしろ、リュシコフの日本滞在関係資料の探究が必要である。ノモンハン事件や第二次世界大戦直前のソ日関係の中でまだ不明な部分が明らかになるかも知れない。
「会報」No.3 1997.5.6
投稿者 hakodate_russia : 17:53 | コメント (0)
市立函館図書館における貴重な発見
A.T.マンドリク
函館日ロ交流史研究会の鈴木さんと清水さんが、函館図書館で歴史資料を調べていて、「週間函館新聞」という珍しい新聞を見つけ出した。
その第1号は1928年9月に発行され、この新聞の刊行によって「ソビエト・ロシアと函館の間の外国貿易の発展に寄与したい」と書いてあった。情報紙でありいわば「ダイジェスト」である。ロシアではこの種の刊行物はさがせなかった。
1928年は日ソ関係にとって特別な年であった。1月23日、日本とソ連の間で8年の期限で漁業条約が締結された。これを根拠に日本は正式にソビエト領海で漁業を行う権利や、水産資源の捕獲・採取に関する権利を得たのである。この年、ソビエトの漁業組織は、その立場を強化すること、特に国営とコーペラチブ企業を強化することが定められた。
そしてこの年に、日本語版とロシア語版の「週間函館新聞」の刊行も始まったのである。新聞の編集人は日ソ両国の各々の漁業事情を、両国の漁業組織や企業に紹介することを使命と考えていた。ここでは、この新聞には、日ソ漁業関係、両国の漁業発展がどのように取り上げられたかを分析したい。
新聞は第一に、太平洋北部における漁業問題に関する日ソの公式文書の承認についてと、モスクワ、ハバロフスク、東京、函館への日ソの官僚の出張についてを掲載した。そして1928年、ソビエト代表団は、漁業条約実現の条件の履行、(1)漁場での労働者の使役、(2)漁区競売、(3)利権にもとづくソビエト領港内での日本の企業の参加、(4)外国貿易拡大についての朝鮮銀行などとの提携、同じくソビエトの漁業機関の発展にかかる前述の銀行の公債の引受について日本に交渉をもちかけたと伝えた。
新聞はかなり詳細にこの交渉の模様を伝えた。日本人漁業者はすでに借りていた漁区の権利の保持、1928年の条約にもとづく新しくより収益のあがる漁区の人手のために闘ったのであるが、積極的に彼らを支えたのは組合であった。また、新聞はソ連の政策(太平洋北部の水産資源の獲得に、日本の企業が参加することを規制すること、ソビエト国営漁業機関の役割の強化、特にカムチャツカにおける)に反論した。
新聞は、ソ連の漁獲制限や借区料金の値上げ、新しい漁業法規に関しての日本の漁業者の抗議を詳細に掲載した。漁業会社は、日本政府は外交手段によって自国の漁業者の権利を擁護しなければならないと主張した。
また新聞は当然ながら、ソ連の初めての蟹工船についても報道した。
それから、この新聞によって、特に詳しく知ることができるのは、漁業条約によってソビエト極東での活動を積極的に拡大した日魯漁業(株)の動きである。この時点から様々な漁業会社が日魯の傘下に合同していくプロセスが始まった。まさに日魯ははじめて本格的に、カニ・魚缶詰生産を展開させるようになった。日魯は9隻の冷凍船を購入した。新聞は日魯はさかなを冷凍するということで、漁業の近代化をはかったと伝えた。そして樺太で、初めて2,000尾のニシンが冷凍された。そして会社は広く国外市場への缶詰輸出を行っ た。
日魯にならって、三井は鮭缶詰をアメリカに輸出し、デンビー商会はハンブルグとアントワープに輸出した。ソビエト極東水域では、林兼、八木漁業、小川合名が事業の確立に奮闘していた。
研究者にとって興味深いことは、新聞に掲載された統計情報である。日ソの缶詰生産、外国市場でのその販売、ソ連領海での日本漁業者による水産物の漁獲量についての資料がある。新聞の資料によって、1920年代、香港は大きな国外市場となり、そこで日本企業が販売した産物の総額は、60万円から70万円に達したことが知られる。
ほぼどの号でも、函館におけるその週の水産物の市場価格、営業倉庫の水産物の在庫、外貨レートなどが掲載された。
この「週間函館新聞」は長くは続かず、最後の60号が出されたのは、1929年3月1日であった。
「会報」No.3 1997.5.6 From Russia