2005年09月19日

満州国立大学哈爾濱学院史抄 ―哈爾濱学院史(同学院同窓会刊)より―

佐藤一成

○終焉
 昭和20年(1945)8月16日、敗戦の翌日校旗焼却式が南寮でおこなわれた。大正9年(1920)日露協会学校設立に当たり、時の日露協会名誉総裁閑院宮殿下から奉戴した校旗に渋谷三郎院長が点火、『桜と桂の紋章』はめらめらと燃えて灰となった。前日来、学生の多くは馬家溝(マジャコウ)十字街の政府代用官舎などの警備についていたので、立ち会った学生は、わずか5、6人という淋しさであった。敗戦そして廃校。悲しくもつらい風景であった。満州国立大学吟爾濱学院はこの日、8月16日をもって日露協会学校創立来25年の幕を閉じた。8月21日、渋谷院長夫妻と次男自決。追って学監白井長助夫妻と家族6人が自決された。拳銃による自決であった。
 そして多くの学院生(軍人・軍属・学生[在校生238名]等)がシベリアに送られた。彼等は学院で学んだロシア語をもって、多くの抑留された軍人他日本人を救うことになった。

○創設
 日露協会学校―哈爾濱学院―満州国立大学哈爾濱学院、この3つの校名は1つの学校の名称である。何故このような3つの名称を持ったのであろうか。それは背景に流れる歴史の変化にあった。
 今簡単にこの歴史の流れを見よう。日露戦争後、日本はロシアとの協商関係樹立を考え、そのため日露両国間に働く人材を必要としていた。そのような情勢の中に明治35年(1902)7月日露協会が成立した。会頭に榎本武揚、寺内正毅など輝かしい名士を据えた。同会の目的は『日露両国民の意志を疎通し、其他通商貿易の発達を計る目的を以って発企され…以下略』とある(東京経済雑誌、第1142号、明治35年7月26日)。
 そして元満鉄総裁後藤新平が第3代会頭になった時、東京外語卒の井田孝平が後藤の率いる日露協会の支持を得て開校にこぎつけた。場所は現在の中華人民共和国黒龍江省哈爾濱市であった。学校名は、『日露協会学校』といい、ロシア語では、ИНСТИТУТ ЯПОНО-РУССКОГО ОБШЕСТВА(インスチトウート イポーナ ルースカボ アブシェーストヴァ)であった。経営は外務省管下の法人『日露協会』で、学制は日本文部省令で、高等商業学校の性格を持っていた。創設の経費は日本政府が25万円、満鉄が5万円を出している。校舎用地は東支鉄道より4,000坪の分譲を受け、建築は建坪7,000坪の第一期工事が開始された。
 創設から13年間が、『日露協会学校』、昭和7年(1932)4月より15年3月まで8年間が『哈爾濱学院』爾後廃校まで『満州国立哈爾濱学院』であった。
 学制は前述の通り昭和15年まで日本の学制による専門学校。その後満州国教育令(文教部)による4年制国立大学となり、満州国所管となった。

○内容
 教科内容は、時勢の変転により、多少の変化はあったが、ロシア語が基軸で、これに露、ソ、満、蒙の文化・経済関係の諸学が按配加味された。初・中期の学科は倫理、露語、国漢文、経済、財政、法律、商業、商品、貿易、簿記、実習、地歴、体技、軍事教練。第二外国語に英、仏、中、蒙が選択された。露語は最重点科目で、露文和訳、和文露訳、文法、会話などであった。他にロシア文化・経済の語学科は露語により教習され、1週10時間から15時間がこれに当てられた。実習とは満蒙中、或は極東ソ連領への研究旅行で、夏季一斉に各地に調査、実践の旅行を実施した。
 校齢25年。卒業生1412名。1年平均約60名弱の卒業生であった。20年の廃校時は在校生総数285名。末期は異常に急激な膨張をとげていた。
 学校は官費であった。学生の大部分は都道府県派遣の公費生で、その他満鉄等から準公費生で、若干の私費生が居た。例えば昭和2年の在学生を見ると公費生97名、準公費生13名、私費生7名であった。学生の大部分は中等学校におけるトップクラスであった。尚、満州国立大学になってからと思うが、満蒙系の学生も若干入学した、何れも優秀であったという。又、後期にあっては簿記等の商業科目の代わりに国家論、大東亜経済論等が講ぜられるようになった。後期は私費生が増加した。

○補記 極東大学と……
 大正9年(1920)臨時極東政府がウラジオストクに樹立され、東洋学院は極東大学となった。最近判明したところによると、同11年に極東でソヴィエト政権が樹立された時、極東大学の教授・学生等多くが中国へ亡命、パトスターヴィン学長もその中にいた。昭和5年よりその学長令嬢のパトスターヴィナは哈爾濱学院講師となり廃校まで講義をする。戦後は日本に来て、上智大学の講師としてロシア語を教えた。筆者も会話の授業を受けたが、恩師であり、懐かしさが残る。
 今函館にロシア極東国立総合大学函館校が創設されている。ご縁があって私は函館校の創設に関わった。もし平和な時代が続いていたら、哈爾濱学院と極東大学の関係が色々な形であったのではないかと深い感慨を持って見ている。
 私(23期)が在学していた時の院長で廃校の時に自決された渋谷三郎先生[二・二六事件当時麻布第三連隊長]、院長を追うように自決された学監白井長助先生など、私達最期の学院生に大きな影響を与えた先生方についても、何時か機を得て記したいと思っている。

「会報」No.4 1997.7.10

投稿者 hakodate_russia : 18:01 | コメント (0)

北のシルクロード ―佐々木史郎著『北方から来た交易民』(NHKブックス)の紹介を兼ねて―

榎森進

 "北のシルクロード"という言葉は、未だ歴史用語としては必ずしも定着してはいないが、ここでは、主として江戸時代に、いわゆる「山丹交易」によって、中国産の絹織物が長崎経由ではなく、松前藩や蝦夷地幕領期の幕府を介して日本社会にもたらされていたことから、この北からの絹織物の交易の道を、中国と西方の諸地域を結んだ本来の"シルクロード"にあやかって、こう称することにした。
 ところで、この"北のシルクロード"に関わる「山丹交易」に関する研究は、近年とみに盛んになってきている。その主要な特徴点を挙げると次のとおりである。(1).近世の「鎖国」に対する理解のしかたが、近年大きく変わり、対外関係の窓口は長崎のみであった、という従来の「鎖国」観に代わって、当時の対外関係の窓口は、長崎の他に薩摩藩―琉球、対馬藩―朝鮮、松前藩―蝦夷地(アイヌ民族)という三つがあり、しかもこうした「四つの窓口」を介した対外関係のあり方は、相手の異国・異民族との対等な関係ではなく、中華思想を軸にした"華夷秩序"を基にして編成されていた、と解されるようになったこと。(2).こうした「鎖国」に対する新たな理解を背景として、北の窓口である「松前口」のあり方の一つとしての「山丹交易」への関心が高まったこと。(3).日本と中国・ロシアとの学術交流が進展するなかで、「山丹交易」の実態解明が急速に進展し、中国の研究者も北の「絲綢之路(シルクロード)」に関する研究をし始めたこと。以上の諸点がそれである。
 本書は、サブタイトルに「絹と毛皮とサンタン人」とあるところからも分かるように、文化人類字を専門とする著者が、これまでの著者のアムール河下流域の先住少数民族に関するフィールドワークを軸にした研究成果を基にしつつも、「山丹交易」に関する従来の民族学・歴史学の研究成果を積極的に吸収しながら、近世の日本社会側から「サンタン人」と称された人々の社会や彼等の実態に迫ろうとしているところに本書の大きな特徴がある。
 スペースが限られているので、本書を読んで私が最も興味を持った問題を一つのみ挙げると、かの有名なサハリン・アイヌの「サンタン人」との交易における"負債"の問題について、このアイヌの負債の本質は、当時「サンタン人」が他民族と交易する時には、商品の前渡し方式をとっていたところにある、と指摘しているところである。従来この問題については、狡猾で奸智に富んだ「サンタン人」が無知蒙昧なアイヌを騙して交易していたために生じたものと説明され、しかも文化年間、松前奉行配下の松田傳十郎がアイヌの負債を肩代わりして「サンタン人」に支払い、アイヌの窮状を救った、という点のみが強調されてきただけに、この著者の指摘は重要である。先住民族自身の立場に立ってものを見る視点の大切さを我々に示してくれた指摘であるからである。
 「山丹交易」は、ロシアが沿海地方やサハリンに進出してくる以前にあっては、中国―アムール河下流域の先住民族―サハリンのアイヌ民族―日本、という関係を軸にして発展したが、1858年の愛琿条約と1860年の北京条約を中心にした前近代の北方世界のあり方を知るうえでも貴重な文献である。

「会報」No.4 1997.7.10

投稿者 hakodate_russia : 17:59 | コメント (0)

函館とロシア極東 ―原暉之氏の連載を読んで―

清水恵

 『しゃりばり』(北海道開発問題研究調査会発行)という月刊誌に、原氏が"「道」のロシア史 ウラジオストク物語"を連載中である。1995年10月(No.164)から始まり、すでに現在では22回を数えている。毎回充実した内容で、写真も興味深いものが多く、いつも色々な発見をさせられている。
 函館についてもしばしば言及されているが、ロシア極東という枠組みからこの町を見るのも、刺激的であった。ウラジオストクの開基(1860年)と函館の開港は同時代であり、二つの港湾都市が否応なく時代の波にさらされていくのがわかる。ここでは函館に引き付けて、二、三のエピソードを紹介したい。
 ウラジオストクが開かれ、最初にもたらされた輸入品は、函館で購入された物資であった。1860年秋、軍艦グリーデン号が食料品と家畜などを輸送したのである(No.168)。ロシアにとって函館は、極東経営のため、自国艦隊にとって不可欠な中継地であり、原氏も指摘しているように、領事館がここに開かれたのもこれをぬきには考えられない。
 さて、1878年、北海道では函館で初めて新聞が出たが、事実上ロシア極東最初の新聞は、5年後の1883年にウラジオストクで発刊された。その紙名も「ウラジオストク」というが、この新聞に函館在住の通信員が記事を送っていた(No.173)。小島倉太郎という函館県(開拓使廃止後に一時期「県」となる)の官吏で、ロシア語の専門家であった。彼は日本の話題を送る一方、「函館新聞」に「ウラジオストク」からの翻訳記事をのせ、情報の交換が行われていたのである。
 No.173とNo.175にはコレラの話題がある。上水道整備や衛生問題など近代都市として歩み始めたウラジオストクの悩みが、函館とだぶっているようでおもしろかった。1886年のコレラ流行で、函館では患者1,022名、死者846名の犠牲を出し、当時衛生局にいた後藤新平が来函、飲料水と衛生の問題を説いた。コレラの猛威に水道建設の機運も盛り上がり、1889年に完成した。
 一方、井戸水に頼っていたウラジオストクでも、1884年に上水道の改善問題が緊急課題として新聞に掲載された。しかし当局は出稼ぎアジア系住民の不衛生な居住地がコレラの感染源であるとし、衛生環境の抜本的対策に着手せず、彼らを移住させることで当面の解決を計ったのであった。
 病院はどうか。ロシア病院やその医師の功績により、函館には早くから西洋医学が根付いていた。1883年には従来の函館病院のほかに、貧しい市民の治療と娼妓の黴毒治療のために公立病院が作られた。それに比べウラジオストクは1890年当時、陸海軍の病院と公立黴毒病院があるのみで、一般市民用の病院はなかったという。両都市に公立黴毒病院があるのも、開港場の現実であろう。
 ウラジオストクの自国居留民を心配した日本政府は、独自に日本人医師を駐在させることをロシア政府に申請、1891年に実現した。ちなみに明治31(1898)年7月5日の「北海道毎日新聞」には、江差病院長の華岡清洋がその技術の優秀さをかわれウラジオストク在留日本人に招へいされて渡航したと記されている。

「会報」No.4 1997.7.10

投稿者 hakodate_russia : 17:56 | コメント (0)