2005年09月19日
「ロシアで実際に仕事ができる」と田中は最初の利権企業を設立した
ユーリ・オシポフ(ウラジオストク)
有名なロシアの旅行家、歴史家、人類学者、愛書家、大いなる通人でウスリー地方の研究家ミハイル・イワノヴィチ・ヴェニューコフは多くの旅をした。1868年には世界一周航海をし、1869~1871年には日本と中国にいた。
その仕事で最も重要なものは、当時の日本の詳細な歴史「日本概説」[Ocherki Yaponii](1868年)と「日本列島概要」[Obozrenie yaponskogo arkhipelaga]二巻(1871年)である。
「日本列島概要」という重要作品のユニークな点はヴェニューコフがロシアの歴史家として初めて、16~19世紀に出版されたこの問題に関する内外文献をまとめて分析した点、日本の地理について記述した点、最も重要な都市、産業構成、農業について叙述した点、国家組織と国家管理を研究した点にある。
特に読者にとって興味深いのは、「日本人の家庭と社会」という章にある、日本の通史と豊富な付録である。
この出版物の緒言で、ヴェニューコフは次のように語った。「何世紀も霧の帳で覆われていた東アジア地方の上を朝やけが登っていった。幾多の優秀な種族が、これまで国の事情や諸規律によって、長く残りの世界から隔離されていたが、先行者の厳かな行進に加わった。新しい強壮な力と、赤々と燃える若い情熱をもって、彼らは前にいた者に追いつこうと志した。……何世紀にもわたる停滞から外圧によって目覚めさせられた社会的意識は、歴史的進歩の動因である。」
ヴェニューコフが日本の諸都市を訪れていた時、彼は函館で食堂を経営していた某アレクセーエフと知り合った。1869年から1870年の日本で唯一のロシア人商人だった。日本は実際、ロシア人を知らなかった。
しかし1871年1月1日に江戸と横浜に総領事をもってロシア代表部を設置した。
それ以降のロ日関係をみると、20世紀初頭には二つの戦争―日露戦争と国内戦争の難事を越えていった。軍事的軋轢、利害の対立、社会機構の相違にも係わらず、善隣関係、経済協力志向が勝った。国内戦争終結後ほどなく、1925年1月20日に北京で日ソ両国間の外交関係樹立についての条約が締結された。経済分野における本条約の重要点は、日本の利権企業への極東地方の石油、石炭、金の採掘が許与されたことである。
この関係で興味深い資料があるのだが、我々がハバロフスク地方国立史料館で見付けたもので、その核心は次のようなものである。1925年2月25日に、極東利権委員会に田中与太郎という日本人が願書をもってきた。それには「私はロシアに20年間住み、ロシア人をよく理解し、ソ連の現状も知っており、思い切ってここにきたのは、オホーツク・カムチャツカ地方の金の調査と採掘について交渉し協定を結ぶためである。私にはほぼ20万ルーブルの資本があり、これを用いるつもりだが、今年の6月から仕事に着手し、9月には日本に行き、日本の人々にソ連で実際に仕事ができることを伝えて説得し、彼らも引き入れてより堅実な株式会社を設立するためである」と書いてあった。
田中与太郎は、彼のいうところによれば「相互の平安と繁栄」に基づき、もっぱら二つの民族を親密にするという目的によって動いていた。そのため彼は日本の農家から少しずつの負担金を出してもらい、組合を作ることにして、さらにロシア人を仲間に入れて大きな資本を創り出すことを決めた。
極東に試験的に会社を設立してみようと、田中与太郎は、30万ルーブルを供出した。リヂンスキー鉱山はそれほど豊かではないが、賃貸条件や税金条件、それに利権業務における外国労働者の利用は50%(最初の二年)、以降、利権の有効期限まで25%という条件について協定を締結した。
1929年10月1日現在、極東地方で活動している10件の日本の利権企業のうち、創立者の名前にちなむ「田中与太郎」金採掘にかかる利権は第一号となり、1925年9月25日にオホーツク・カムチャツカ地区に作られた。そのあとにサハリンの石油と石炭開発に関する二つの日本の利権企業「北樺太石油(株)」と「坂井組合」が続き、四番目は1928年に設立されたカムチャツカ方面での漁獲に関するものであった。
このように、田中与太郎は日本の企業家のなかで、ロシア極更に利権企業を組織した最初の人であった。
「会報」No.5 1997.10.6 From Russia
投稿者 hakodate_russia : 18:08 | コメント (0)
亡命ロシア人作家バイコフと大連の小学校教師宗像英雄の交流の軌跡
清水恵
1996年の秋頃、会員の佐藤一成氏からお電話をいただいた。このたび極東大学函館校の図書室に元小学校長宗像英雄氏の遺品である図書が収蔵されたとの由。その話の終わりに「バイコフの奥さんの手紙がご遺族のところにあるそうですよ」、と聞き捨てならないことをおっしゃられた。こうして思いがけず、バイコフと宗像英雄に交流があったことを知ったのである。
バイコフは1957年にオーストラリアに移住するまで、人生の大半をハルビンで過ごした。最初は、ロシア帝国の軍人として、後半は亡命ロシア人としてだった。
川村湊の表現を借りれば、「すでに六十八歳だったバイコフを、樹海の中から連れ出し、満州文学の世界に登場させたのは、長谷川濬」なのであった。バイコフはロシア語で作品を発表していたが、初めて彼の作品『偉大なる王』を邦訳したのが、長谷川濬なのである。このような形容は不本意だろうが、海太郎(林不忘)の弟で四郎の兄である。
菊池寛などにも認められバイコフは一躍、時の人となった。そして本人の意向はどうあれ、「五族協和」を体現するシンボルとして、政治的なものと無縁ではいられなかった。
その中にあって、当時大連の小学学校教師だった宗像英雄とその生徒とは、真に純粋な友情で結ばれていたといえるだろう。バイコフの作品に感動した小学生たちが、絵を描いて作家に贈ったことが発端で、それから四年間、書簡がやりとりされたのである。
宗像が約50枚ほどのトラの絵を持参して、初めてハルビンのバイコフ邸を訪ねたのは1938年の3月6日のことであった。宗像がこの初対面の印象を綴った訪問記が残っている。雑誌にでも掲載する予定だったのだろうか。末公表のようなので、いつか紹介できればと思う。
宗像とバイコフがどれぐらい親密であったか、残された遺品だけでは判断がつきかねる。しかしバイコフは原書を贈って翻訳を依頼したし、満州の自然を愛する者同士という共感もあり(宗像は植物研究者でもあった)、かなり心は通じ合っていたのではないかと推察される。
しかし、二人の出会った時代は最悪だった。戦争が終結をむかえようとする頃に宗像は現地で召集をうけた。それでも幸運にも生きぬいて、1947年に函館に戻った。一方バイコフは、これまでの親日家ぶりから、誰の救援もなく、ハルビンの厳しい世間に、立ちむかわざるを得なくなった。
1958年バイコフが移住先のオーストラリアで亡くなったことが報道された。宗像は彼を忘れてはいなかった。夫人に手紙を出して、あの原書を翻訳して日本で出版しようとしたのである。上脇進の翻訳だが、その際植物名の翻訳は宗像が尽力した。この本は岩波書店から『私たちの友だち』として出版された。
宗像の自宅の机の上には、ずっとバイコフの写真が飾られていたという。生前にお会いできなかったのが本当に悔やまれる。
「会報」No.5 1997.10.6
投稿者 hakodate_russia : 18:06 | コメント (0)
サハリン紀行と日ロミニ・シンポジュウム参加記
田島佳也
8月12日、4泊5日のサハリン紀行に函館から出発した。5人の函館日口交流史研究会のメンバーに同行した調査研究である。
目的は日本統治時代の史料と景観調査、日ロの史的関係についてサハリン学術研究機関との共同研究の可能性を探ることにあるが、幕末アニワ湾でアイヌを使って漁業経営をした紀州商人を以前に研究したことのある私自身にとってはとりわけ前者の調査に関心があった。しかもサハリン郷土史博物館にはその当時の史料があるらしいと聞いたので、接写カメラなどを用意して参加した。
午前11時45分函館出発。かなり古いアエロフロートのプロペラ機に搭乗し、厚い雲海のなかユジノサハリンスク(人口18万人)に16時(日本時間14時)に着いた。出迎えのユジノサハリンスク教育大学のリム・ソフィヤ先生と十数年ぶりの再会である。早速、サンタ・リゾートホテルに向かい、それから晩餐をサハリンスカヤ通りのレストラン・スラヴャンカで堪能する。
翌朝、サハリン州近現代史料センター長のヴィソーコフ氏を訪ねる。1925~91年(ソ連崩壊)までセンターはサハリン州共産党執行委員会の近現代資料所蔵館であった。このセンターを含め、建物は一般に補修が行き届いておらず、とくに水洗トイレの故障が目立った。
さてヴィソーコフ氏の話では、歴史中心のサハリン・クリル研究会が年4回開かれ、この地域対象の教科書作成も手掛けているという。だが、統治の歴史的経緯から仏・独・英・露・日語の文献が混在し、それが研究の進展を阻んでいると指摘され、日口共同研究の必要性が力説された。
午後は25万点の文書を所蔵する国立サハリン州文書館へ。数日後に定年を迎える館長のデュダレッフ女史の歓迎を受けた。文書館には1945年までの樺太庁時代の資料約千点、樺太警察関係資料(1907~45年)218点、ほかに反政府学生運動資料、外国人スパイ容疑についての資料などがある。書庫では昭和13年(1938)の逓信省電信授受簿・鉄道省の鉄道関係資料などをみ、閲覧室では樺太庁による市町村・産業・日露戦争戦死者についての調査記録、王子製紙落合工場の写真帖などを閲覧した。
13日は小樽と釧路の姉妹都市、西海岸のホルムスク(旧真岡、人口5万人)を巡見。ユジノサハリンスクから車で約2時間。廃墟の旧王子製紙工場を遠望した。同行の桜庭氏の父上の形見という写生画に描かれた工場の姿を今に伝え、我々を感無量にさせた。
工場をあとに海岸沿いの道をプラウダ(旧広地)方面へさらに南下、チュソフカ川の河口あたりにアイヌコタンの跡らしき所を発見した。暫し近世のコタンに思いを馳せるが、はるか海上に建つ油田探査機がそれを妨げた。また南下。人気のない漁家が一頻り続くガタガタ道を途中から引き返し、夕方ユジノサハリンスク駅近くの自由市場に着いた。思っよりも品物が豊富である。注意を受けながらも、市場ではリュックの背から携帯カメラが抜き取られ、手痛い経験をした。
14日の午前中は州立サハリン郷土史博物館(旧樺太庁博物館)を訪ねた。19世紀のアニワ湾漁業関係の写真を見たかったが果たせず、樺太神社跡地を見学した。本殿跡には旧ソ連共産党幹部の宿泊ホテルが建っていた(現在未使用)。また、トイレに利用されている廃墟のコンクリート製校倉造り宝物殿をみて、こうした利用法もあるのかと感心した。
4時頃からサハリン州近現代史料センターでミニ・シンポ。参加者は日本側出席者が6人、ロシア側が8人。ソフィヤ先生の通訳のもと、榎森進氏が「アイヌ民族の過去と現在」と題して報告した。報告ではおもに19世紀末から明治までのアイヌ民族問題に絞り、生活空間の変遷や松前藩支配下の存在形態、明治政府によるアイヌ政策の特徴を時系列的に述べ、時代的特徴点と相違点を指摘した。
それから1889年に成立した「北海道旧土人保護法」が、主権在民と基本的人権が認められた第二次世界大戦後も廃止されず、今日までアイヌ差別を温存し続けたこと、70年以降世界の先住民族の発言・主張が高揚するなかで先住権を認めない日本政府の立場や北海道ウタリ協会を中心に先住権や民族議席、民族自立化基金を盛り込んだアイヌ新法成立への運動が高まったこと、97年5月に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)の制定をみた経過説明をした。
最後に、この法律が民族差別と先住権に一切触れていない点で不十分なものの、アイヌ民族の置かれた歴史的経緯から判断して一定の成果であると、氏は評価し、アイヌ民族が新たな転機に直面している現状を訴えて報告を終えた。
その後、もっぱら榎森氏がロシア側出席者の質問に答える形で進行した。質疑の内容をここでふれる余裕がないが、ロシア側研究者のアイヌ民族を含む少数民族に対する関心がどのあたりにあるか、を図らずも露呈する形になったといえる。と同時に、この問題に対する日口研究者の交流が如何に必要かを再認職させられた。内容の深化は11月に函館で行われるシンポジウムに期すことにして閉会した。
翌日に帰国。定刻通り10時40分に離陸し、12時30分曇り空に覆われた函館空港に無事着陸。一時的に視界の開けた札幌上空で無機質な大都会を垣間見たが、何故かそこに人間の蠢きのようなものを感じた。日本とは、日本人とは、と改めて考えさせられたサハリン紀行は終わった。
「会報」No.5 1997.10.6