2005年09月20日
青森のロシア人 ―ロシア革命~第二次世界大戦~ペレストロイカ
工藤朝彦
1992年6月上旬、朝日新聞青森支局宛ての手紙の翻訳を依頼された。差出人はウラル地方スベルドルフスク市(現在のエカテリンブルク)在住のロシア人女性であった。女性の名前は、エリキーナ・イリーナ・ダニローブナといい、1942年2月15日に青森に生まれ、ロシア正教会で洗礼を受けた。父は、ロシア人で名はカザンツェフ・ダニイル・スティパノビッチで1894年生まれ、母は日本人でウメハラ・ヨーコといい、函館市の近くで1914年に生まれ、1935年にロシア正教徒となった。彼女にはクラビージャという姉とコンスタンチンという兄がいた。母は、1943年8月18日に亡くなり、一年後、父に連れられ中国のハルビンヘ渡った。1955年、ソ連に移るとともに姉妹は孤児院に預けられた。初等学校卒業後、身分証明書を交付されたが、国籍欄・出生地欄には斜線(不明)が引かれていた。
教会の記録や戸籍が日本に残っているのではないか。彼女のこれまでの人生は無国籍、姉も同様である。姉のためにも、どうしても、出生の記録を手に入れたい、というものであった。
早速、函館と盛岡のハリストス正教会に洗礼の記録について照会するとともに、青森市の梅原姓の戸籍を調べたが、ウメハラ・ヨーコの名前は見当たらなかった。しかし、偶然にもカザンツェフを知る伊藤さんという78歳の男性に出会うことができた。伊藤さんの思い出によれば、昭和初期に、当時青森駅前で洋服店を営んでいたべリコフというロシア人が、昭和13年にカザンツェフ夫婦を函館から従業員として招いた。カザンツェフの妻はもの静かな日本人でロシア人との結婚ということから、引け目を感じていたらしい。
伊藤さんの証言を頼りに、カザンツェフー家をよく知っている複数の老人に会うこともでき、また、函館市に照会したり、北海道新聞社で記事として扱ってもらったが、出生の記録を捜し出すには至らなかった。
しばらくたってから、私が勤務する役所で保管している戦前からの資料を探していたところ、「ウメハラ・ヨーコ」の死亡届を発見できて、「ウメハラ・ヨーコ」は実は「梅原ヤエ」で、北海道静内町に戸籍があり、兄一人だけが、北梅道奈井江町に住んでいることが分かった。
また、函館ハリストス正教会の松平神父からは、「梅原ヤエ」と長女の「クラビージャ」の記録を発見できたという連絡を受けた。
ある時、私が調査していることをロシア大使館から聞いたというロシア人のシュウエツさんから電話をいただいた。13歳まで函館に住み、父がカザンツェフと仲がよかったとのこと。
期待していなかったが、まもなく盛岡ハリストス正教全からイライダ(イリーナの愛称)さんと兄のコンスタンチンの洗礼証明書が送られてきたのであった。
8月末、イライダさんから感謝の手紙が届き、イライダさんと叔父・従兄弟たちの文通も始まった。
青森を去ってから、カザンツェフは通訳として徴用され極東へ向かった。長男のコンスタンチンは天然痘で亡くなり、イライダは孤児院へ入り、重い病気を患っていた姉のクラビージャは修道院の付属病院で長い療養生活をすることになった。
1954年から1960年にかけ、すべてのロシア人はハルビンから出ることになった。父カザンツェフは、自分の生まれ故郷ペルミヘ向かった。姉妹はハルビン時代の孤児院で世話になったスベルドロフスク市に住むロシア人に引き取られた。父に対し憎しみを抱いたこともあった姉妹は、若い妻を失い、息子まで亡くした人の心痛たるやいかなるものかを理解するようになった。70歳になったカザンツェフは、1964年、新しい妻をつれて彼女たちの所にやってきて、7年間一緒に生活を共にした後、亡くなった。その間、娘たちの身分証明書の出生地等回復のため努力を重ねたという。1987年のペレストロイカにより、イライダさんは書類探しを再開し、ロシア外務省に手紙を書いた。また、エリツィンが故郷のスベルドロフスクを遊説で訪れた際、嘆願書をこっそり背広のポケットに入れたという。
ある時、ウラルマーシの工場従業員であるコマロフと話す機会があって、彼が東京でロシア語を学ぶ日本人女学生と文通している縁で、彼女と手紙で知り合い、朝日新聞の支局や函館のハリストス正教会に問い合わせるようアドバイスを受けたという。カザンツェフは、「当時、青森には、裁縫業の主人べリコフとその妻ニーナ、パナチョフ一家、フドゥーシキン一家などが住んでおり、北海道から青森へ移住したらしい。彼等はもともと、ロシア革命後の白系ロシア人であった」と言っていたという。
私は、かの有名な野球投手ビクトル・スタルヒンは父母ともにウラル地方のペルミから革命を逃れ、北海道の旭川市に住むようになったことを思い出し、カザンツェフと同郷であることから、ひょっとしたらお互いに顔見知りの仲ではなかったかと想像をしてみた。
パナチョフ一家の兄妹のことについて少し述べたいと思う。実はイライダさんから最初の手紙が来た1か月前の1992年5月、青森からの旅行者との思わぬ対面から、サハリン州ユジノサハリンスク市に兄のワレンチンが在住していることと、妹のエカテリーナも、ロストフ市に住んでいることが分かった。二人は盛岡に生まれ、昭和12年頃家族とともに青森に移住し、太郎・花子と呼ばれていたが、太平洋戦争の激化の中、亡命白系ロシア人という理由で、家族と日本を離れることを余儀なくされた。
兄妹は小学校の旧友たち等の尽力で、それぞれ1992年と1993年に青森を訪問することができた。ワレンチンの青森訪問の翌年、1993年2月10日に兄妹の母が亡くなり、母が去ったすぐ後、母の妹であり当時青森で両親とともに、パンを売っていたターシャ・フドゥーシキンも75歳で2月20日に世を去った。
また、シュウエツさんとお会いして、べリコフとパナチョフ一家が函館湯川に住んでいたことや、べリコフの妻ニーナが横浜に健在でいることを話してくれた。
1995年8月9日、イライダと姉のクラビージャは、従兄弟18人の支援により、51年ぶりに故郷の青森を訪れることができた。北海道に眠る母親の墓参りもした。この年は、終戦から半世紀に当たる年でもあった。しかし、翌年5月、イライダは胃癌で亡くなったのである。悲しい出来事ではあったが、せめて一年前に、祖国を訪問できたことは、イライダさん本人にとり幸福ではなかっただろうか。
このように、一通の手紙が青森に届いたことと、サハリンでの出会いが、戦後50年近く経て、ほぼ同時期に起こったことは、単なる偶然とは言い難い。現在も、エカテリンブルクの姉のクラビージャさんはロストフのエカテリーナさんとユジノサハリンスクのワレンチンさん兄妹と文通を続けている。
「会報」No.6 1998.1.8
投稿者 hakodate_russia : 22:29 | コメント (0)
私とロシア
本間孝太郎
私は現在日本輸出入銀行で極東ロシア向け融資を担当しております。勤めは東京ですが、函館生まれの函館育ち、日本人である前に函館人であると自負している者です。とは言っても、高校卒業以来現在に至るまで十年以上も首都圏暮らしをしており、函館へは年に数回休暇や正月に帰る程度ですから、大人の目で世間を見られるようになってからは、函館の様子をつぶさには見ていないため、現在の函館の状況をよく分かっていないというのもまた事実です。
函館日口交流史研究会と知り合ったきっかけは、函館大学の永野先生の御紹介で、同研究会のミッションが今年8月中旬にユジノサハリンスクを訪れるに際し、5月末にユジノサハリンスクヘ出張したときの体験なり街の様子を話して欲しいとの御依頼があって、市役所内の市史編さん室を訪問したことでした。私の母は函館で会社を経営しており、私は長男で事実上の後継者にされていて、将来的には函館に戻ることになるため、今のうちから出来るだけ様々な人達との人脈を築いておくという意図もあり、引き受けさせてもらいました。
今般、11月7、8日に行われた函館日口交流史研究会主催の研究会と市民セミナーの感想文寄稿を仰せつかりましたが、函館の現状に疎い私にとっては今回のセミナーはその具体的な内容よりも自分自身と函館及びロシアとの関わりを改めて考える機会となりましたので、その辺のことを書いてみたいと思います。
これまでの私のロシアに対する思いは、ひとえに憎悪と憧れのアンビバレンスでした。私は1966年生まれで、その4年前にはキューバ危機が起こり、70年代にデタントは在ったものの正に冷戦の真っ只中で子ども時代を過ごしました。子どもに冷戦の真の意味は分からなくとも1976年9月、小学校のグランドで体育の授業を受けていたその真上を強烈な炸裂音と共にミグ25が降下していくのを目の当たりにするとやはり何となくソ連は不可解な不気味な存在だったのだと思います。
中学生、高校生と物心が付いてくると、ソ連共産主義(実はこの実体はよく分かっていなかった)に対する憎しみは頂点に達し、深夜、ラジオのダイアルをひねっているうちにソ連極東放送の反米プロパガンダ放送が入ったりすると義憤に駆られたものでした。これは特に私の亡き父親の影響が強かったのですが、社会人となり、多少は会社経営の難しさも分かってきた今にして思えば、一経営者として先代より営々と築かれた資産を引き継ぎ、それなりの苦労もして維持経営してきたものを、「革命」などというクーデターで勝手に取り上げられ、「みんなのもの」にされてしまうという思想など到底許されるものではなかったのだろうし、現在の私も同感です。
その一方で、父がロシア民謡のファンであったことから、私の家にはペーター・ラガーというドイツ人バスの歌うロシア民謡のレコードがあり、小さい時からボルガの舟歌、ステンカ・ラージン、ポーリュシュカ・ポーリェといったロシア民謡に親しむと同時に、ジャケットの歌詞のロシア文字を眺めつつ一体この文字は人が読めるものなのか、特にшは燭台のようだし、бもワーグナーチューパのようで、どう発音するのか想像を働かせつつレコードを聴きながら一所懸命文字を迫った記憶があります。その後やはり家にあったレコードで、ショスタコービッチの『森の家』をはじめ、チャイコフスキー等々のロシア音楽に触れていくにれ、ロシアの芸術に対する尊敬の念が深まっていったわけです。
この二つの感情の対立がロシア語習得の欲求となり、大学の第2外国語は、迷わずロシア語を選択しました。因に父は息子がロシア語をやると「赤化」すると思ったのか、猛烈に反対しました。
冷戦が終結し、共産主義が崩壊した現在、このアンビバレンスの解消は当然のことですが、自分でも不思議なのは、現在のロシアに対し憎悪の念が全く残っていないことです。つまりその憎悪とは社会主義、共産主義即ちソ連に対する憎悪であってロシアに対するものではなかった。そしてロシアに対しては常に憧れしかなかったわけです。そして今感じるのはソ連に対する憎悪も冷戦によって「作られた憎悪」であったということと、旧ユーゴ諸国を始めとし、世界各地の紛争は冷戦に関わらずいかにこの「作られた憎悪」によるものが多いことかということです。
今回のセミナーでロシア人ゲストの美しいロシア語の音を聴きながらこのようなことを考えつつ感じたのは、函館にはハリストス正教会がある、旧ロシア領事館もある、ロシアは日本の隣国で、函館は昔からロシアとの交流は盛んだったという、函館に住んでいる時は当たり前すぎて意識されなかった歴史、あるいはこれまで冷戦の陰に隠れてしまっていた歴史を再認識し、これから普通の交流をしていかなければならないし、それが我々の世代の使命なのだろうということでした。
「会報」No.6 1998.1.8
投稿者 hakodate_russia : 22:27 | コメント (0)
函館・ロシア極東交流研究会と市民セミナーに参加して
永野弥三雄
クラスノヤルスクで行われた日口首脳会談より数日後の11月7日、8日に函館で開催された表記のセミナーに参加した感想を述べます。
まず、報告者・パネラー等の紹介につきましては、紙幅の都合で割愛せざるをえません。なお清水恵さんが退引ならない事情で参加されませんでしたが、報告書には紙上参加の予定と聞いています。
研究者相互のコミニュケーションは、荒井信雄氏の熱気あふれるばかりの名通訳で何の支障もありませんでした。
さて、この研究会・セミナーの目的は「ロシア極東と函館の歴史」といった限られた問題設定を一歩踏み出して、「函館はどうしたらロシア極東との交流拠点となり得るか」(鈴木会長の開会の言葉)ということでしたから、各発言者の豊富な内容を大きく歴史と現状および課題と提案に分類して、強く印象に残ったことをロシア研究者の報告を中心にして紹介します。
Ⅰ歴史:A・T・マンドリク氏は、「ソ日・ロ日漁業関係と函館」がテーマで、19世紀後半から20世紀の30年代にかけての両国による北洋漁業発展を概観しました。そのなかで、日魯漁業(株)がソ連に対して多額の権利料を支払っていたこと、またソ連最初の蟹工船「カムチャツカ号」が函館の日魯造船所で昼夜兼行で改造されたことをあげ、「函館というまちは両国間にある肯定的な側面を積極的に果したし、こうした過去における経験から今後、相互にとって互恵的関係を発展させ得るだろうが、すでに研究者の交流はそのあらわれである」と結びました。これに対し鈴木旭会長は、「露領漁業は対立と協調の関係であったし、現在の日口関係はうまくいっていないが、今後協力関係存立の根拠を見出していこう」とコメントしました。
V・V・コジェブニコフ氏は「ウラジオストク市と函館市の関係」と題して、「ロシアは日本の裏口からやってきたので、函館とは裏口同士のつきあいだ」と話はじめ、エリートが公式に会う会談ではなく、今日の会合のような庶民同士のつきあいの方が貢献が大きいとし、また日口両国間の差異が大きいというが、精神文化の面では共通性があると指摘しました。そして、ウラジオストクと函館の二都市の成立と発展について12の共通点をあげ、「両都市の交流の規模を私達の希望する程度まであげたい」と結びました。
原暉之氏のコメントでは、さらに両都市の共通点があげられ、15点まで数えられる頃には、なごやかな雰囲気が会場にあふれた次第です。
2日目の原暉之氏の報告は、明治期に「ウラジオストク新聞」の通信員として活躍した小島倉太郎が日ロ両国間の架け橋の役割を果したことを明らかにしました。
Ⅱ現状と課題および提案:1日目のL・L・ラーリナさんは、「ロシア極東南部の日本人観」がテーマでした。今年の7月、8月に「沿海州」で、10月にはウラジオストクで行われた世論調査(811票回収)の結果を詳細に説明しました。これは2年前の交流史シンポジウムの際の報告に続くものですが、この2年間の日本人に対するイメージには殆ど変化がないそうです。最も親しみある国はアメリカと日本です。ロシア人からみた日本人像は勤勉(66%)、礼儀(52%)、責任感(36%)が多くすべての年齢層、職業層に共通とのことです。そして、日本に対する関心は強まる傾向だが、日本の情報は限られているから、これが十分に満たされていないと言います。
ラーリナさんの報告に対して藤本和貴夫氏は、総理府調査によるロシアに対する親近感の近年の数字の変化をあげて、これを北海道、日本海側でみたらどう変るかなどの問題を提起しました。
2日目の宮本勝浩氏は、ロシア極東貿易における各国別の状況を説明し、日本は腰が引けて減少していることを明らかにしました。ロシアは大国だから少々の外資では影響はでないが、投資の乗数効果は2倍以上だろうと推定します。函館はサハリンとアジアとの通過点として緊密な関係を結び、かつての大阪のように繁栄してほしいと結びました。
続いて今井孝司氏は、函館とロシアとの現在のかかわりには、姉妹都市、定期航空路、極東国立大学、領事館分館のあることをあげ、サハリン石油開発後方支援基地を目指して市が活動していることを明らかにしました。
ところで、村上隆氏は肯定的に話をしたいし、水をさすつもりはないがと前置きした上で、サハリン大陸棚の開発を地域レベルでみた場合、参加できる程度はどうなのかを地図と数字を掲げて説明しました。後方支援基地となるためには、人と物の動きで考慮すべき点は7点((1)雇用の主体はロシア人(2)賃金、物価の低コスト(3)輸送の利便性(4)外国人技術者の休息の場所(5)税関機能(6)修理基地機能(7)ロシアの資金不足)あると指摘しました。そして函館が観光、保養基地として期待できることを示しました。
次に輪島幸雄氏は相手側の論理で状況判断することの必要を説き、稚内、新潟、富山などにくらべて、函館は情報収集、経済交流の面で立ち遅れていることを指摘し、函館には施設が必要だと強調しました。
2日目にサハリン近現代史料センター所長のM・C・ヴィソーコフ氏は、二つの提案をしました。第1は歴史の共同研究です。これまでのロシアの歴史研究は多くの矛盾を含んでいたが、漸く誠実に調査、研究しようという空気が生まれ、国内の文書館や図書館の閲覧は自由となり、海外の研究者との交流が盛んとなった。そして、サハリン、クリル諸島と北海道の歴史には共通点があるから、共同研究、共同執筆しようと提案しました。
第2は領土問題解決の方法についての研究提案です。領土問題の解決に関する7つのシナリオを提示しましたが、解決に至るシナリオは次の3つです。(1)ロシアの構成主体が変り、シベリアがウラルから離脱した場合。(2)ロシアの経済改革が成功して、民主主義体制が確立した場合。(3)日本の経済が破綻し、アメリカとの安保が崩壊してユーラシア同盟ができた場合。
一方で解決できないシナリオは、(1)ロシア経済は危機から脱出したが長期停滞の場合(2)経済政策の失敗でロシアが深刻な経済危機の場合(3)ロシアに内戦が勃発した場合(4)日本の政治、経済に長期的に混乱が生じた場合、としています。そして、この領土問題の解決方法についても両国の研究者で考えてみたいと提案がありました。
秋月俊幸氏はこれを受けて、歴史の共同研究は是非やりたいとした上で、ロシアの歴史学が現在大きく変ってきていることを歴史的に説明しました。しかし第2の提案の領土問題解決方法の研究は難しく、タッチしたくないと言明しました。
最後に佐藤経明氏の総括は、ロシア経済は危機を脱出したが長期的停滞が続くと思う。サハリン開発における極東ロシアと函館との提携は距離もあり容易ではないだろう。函館のもつ過去の栄光と財産は、このことには役立たないのではないかとして、函館のなすべきことは、サハリン、クリル、ロシアの正しい歴史を共同でつくることではないかと締めくくりました。
以上のように2日間にわたる研究会とセミナーは皆川修吾氏の司会により充実した内容をもって終了した次第です(報告者等の発言についての文責は筆者)。
「会報」No.6 1998.1.8