2005年09月20日
恋の町函館 ―シンポジウム参加記の一節から―
V.V.コジェブニコフ
11月6日
今日、函館日ロ交流史研究会主催のシンポジウムに行く。初めて函館に行ったのは2年前だった。もう2年、私はこの懐かしい町を何回も思い出している。沢山の日本の都市を訪問したが函館はちょっと特別なのだ。私の部屋にある日本の景色は、函館の夜景の写真が一枚だけだ。
明日、もう一回この「町」を散歩できるとは信じられない。また楽しいのは日本の友達との面会だ。鈴木先生、清水様、桜庭様、永野様、菅原様、長谷部様、極東国立大学の友達も函館にいる。
我代表団は歴史研究所の3人だ。僕のほかラリナ氏とマンドリク氏。ウラジオから飛んで出て1.5 時間のあとタクシーで新潟駅まで行く。お祖母さんのダーチャまでは2時間かかるから、日本は著しく近い。もう2時間後、東京の銀座キャピタルホテルに泊まった。
東京の夜は最高だ。マンドリク氏に銀座と皇居を案内。その後、てんぷら。マンドリク氏をホテルまで見送って、もうすこし散歩して鮪刺を食べた。
11月7日
ロシアでは「船からパーティーへ」という諺がある。意味は旅行(仕事)の後すぐ楽しい雰囲気に入ることだ。朝早くタクシーでモノレール駅へ。モノレールで羽田空港、そして飛行機と乗り継いで函館まで。いそがしくホテルのチェックインをして結局、シンポジウムホールに入り込んだ。間に合った!
シンポジウムの会場は五島軒だった。ここに知人が大勢いた。函館の知り合いの人々のほかに、札幌から来た皆川先生、原先生、村上先生、秋月先生、荒井さんとの面会が楽しかった。でも、これだけじゃない!大阪から藤本先生、宮本先生が来たのだ!サハリンからヴィソーコフ氏も参加する。立派な仲間たちだね。
シンポジウムの担当者は面白いシンポジウムを準備した(二日間の会議の報告書が「会報」6号 1998.1.8に発表された)
会議の後は懇親会だった。シンポジウムには学術の成果とともに、人間関係がとても重要なのだと思う。このような懇親会は人間関係を固めるために必要だ。パーティーが終わってから函館山に登った(タクシーで)。眺めも最高。
上は風が強かったから暖まらなければならない。みんなで居酒屋に入って暖まった。不思議なのはウィスキーとお湯。僕は普通のウィスキーで暖まった。
11月8日
国際ホテルは便利で、快適なのだ。美味しい朝飯。日本はどこでも料理がうまい。7時半から10時まで市内を歩け歩け。10時から市民交流セミナー。セミナー終了後、函館日ロ交流史研究会員とロシアの研究者の談話会。
11月9日
7時半から10時まで市内を歩け歩け。高田屋嘉兵衛像の前でCさんと落ち会い、博物館本館と図書館を訪問。途中極東大のアナトーリイ・トリョフスビャツキ氏と函館八幡宮に入る。境内の蛙像を見て、有名な俳句を思い出した。
11月10日
7時半から10時まで市内歩け歩け。ラリナ氏とマンドリク氏は自由行動だが、僕は忙しい。昼までにヴィソーコフ氏を見送ると、その後で、極東国立総合大学函館校の訪問などだ、すごいね。
11月11日
7時半から10時まで市内歩け歩け。10時半に火山の恵山と温泉に出発。日本に何回も来たにもかかわらず温泉はまだ。恵山までの海岸道はすばらしかった。
頂上には桜庭さんと二人で、噴煙のところまで登って、もう少し歩いて、展望台から下にある北海道を見た。頭に手拭のスカーフを被っている桜庭さんは、カリブの海賊に似て強そうなので、僕は何も恐れずに、安心していた。
その後温泉だ。これは恵風ホテルだった。残念だがラリナ氏とマンドリク氏はお風呂に入らなかった。でも僕は、日本人の友達と一緒に入った!印象は言葉で説明せず。三つのバスをわたって、最後の露天風呂に残って楽しんだ。不思議なのは男性のお風呂に父と一緒に来た女の子だった。温泉の後のビールは最高だ。
夜は送別会だった。別れはいつも悲しいのだ。この送別会は愉快なのだったが、悲しみもあった。函館のシンポジウムの家庭的な雰囲気は、まことに楽しい。皆様の顔を見て、いつもう一回、皆で集まれるかと思った。
11月12日
7時から8時まで最後の市内歩け歩け。9に空港へ出発。途中で函館に戻りたかった。
P.S 4か月後のいまも戻りたいです。私はよく函館を思い出しています。私が好きな日本に、恋の町函館があるのは素晴らしいです。
「会報」No.7 1998.4.16 From Russia
投稿者 hakodate_russia : 22:37 | コメント (0)
幕末・維新期の日本史研究と極東状勢について
麓慎一
幕末・維新期の日本を研究する場合、「外圧」の問題は極めて大きな課題である。この幕末・維新期の「外圧」は、従来の研究では、主にイギリスによる日本の「植民地化」の危機の問題として、捉えられてきた。確かにイギリスの対日政策が、幕末・維新期の「外圧」の重要な部分を占めていることを否定することはできない。
しかし、19世紀の世界史的対立はイギリスとロシアの対立である点を否定する人はいないであろう。とすれば、これまでのイギリス中心の「外圧」に対する理解は、いささか問題を含んでいるのではないだろうか。そのような視角から、幕末・維新期のロシア問題、特に極東の状況をながめてみると、実に多くの事件や紛争が起っていることが分かる。「外圧」再考のためにこの点を二、三紹介することにしたい。
たとえば、幕末期では、ニコラエフスクの問題がある。ニコラエフスクは、幕末期に都市化が進み、アメリカ人なども居住する国際都市となっていた。当時、箱館奉行もこの動向に注目し、幕吏を派遣するなどして情報を集めている。また、このような状況下で発生したクリミヤ戦争は、極東に英露対立を持ち込み、箱館が軍事補給基地として重要な役割を持つようになるのである。クリミヤ戦争以後、英露対立の構造は極東の動向を考える上で最も大きな要因の一つとなる。
たとえば、第二次アヘン戦争が発生した時にも、幕府はイギリスが対馬を戦争の負傷兵のために利用するのではないかと恐れるのであるが、それはすなわち、英露対立がこの島に持ち込まれることを危惧したのである。周知のように、ポサドニック号事件(ロシアの対馬占拠事件) は、幕府の危惧を現実のものとした事件である。また,ロシアがアメリカに売却したアラスカの問題も、アメリカの極東進出を容易にした、という点で忘れることのできない問題である。
一方、維新期では、先のニコラエフスクからウラジオストックにロシアの軍事拠点が移されることに注目しなければならない。この問題は、当時の日本の新聞にも紹介されている。軍事基地がウラジオストックに移される意味も日本側は十分に理解していたのである。そして、政府は実際にこの動向を調査しているのである。このような状況で起こったのが、普仏戦争である。この戦争によって、ロシアがヨーロッパにおける対立から解き放たれ、極東における勢力を一挙に拡大するのではないか、という懸念が維新政府を脅かすのである。そして、その拡大の方向は、樺太であり朝鮮なのである。これが、幕末以来の征韓論者たちに、征韓断行論を促す国際的背景となるのである。
このように、幕末・維新期における極東の国際状勢の変化には、ロシア問題が常に関係しているのである。これまでの日本史研究では、このようなロシアの問題が「外圧」として組み込まれていないのであるが、この分野の研究は、おそらく幕末・維新期の研究において未解決であった問題に解答を与えてくれるであろう。
最後に、この問題に関する史料を一つ紹介して、小稿を閉じることにしよう。その史料とは、明治三年五月に当時兵部大輔であった前原一誠が「大に海軍を創立すべきの議」として提出した建議である。
(1)彼(ロシア―麓)曾て土耳其を取て地中海に突出し亜欧二洲を中断せんとする、英仏力を合て之に抗するを以て果さず、(2)近年黒龍江に沿ひ満州の地を取て我が北海道及朝鮮と境を接し、連ねて皇国支那朝鮮の北境に圧迫す、(3)今若海に突出して良港を得海事を整備するときは其大欲終に制止すべからず
この史料には、兵部大輔前原一誠が海軍を創立しなければならない、と考えた国際状勢がよく示されている。傍線(1)ではクリミヤ戦争の状況が記され、これを受けて傍線(2)にあるように、幕末以来のロシアの南下と北海道と朝鮮の危機が問題となっている。その上で、傍線(3)のように、ロシアがもし「良港」を得たらロシアの南下は止めることができない、というのである。「良港」すなわち、この状況下では、ウラジオストックの軍港化を指しているのである。
このように、海軍の創立、という面でもロシア問題がその動因の一つになっていることを強調したいのである。極東状勢を視野に入れることで、従来のイギリスの「植民地化」という「外圧」を問い直すことができるであろう。
「会報」No.7 1998.4.16
投稿者 hakodate_russia : 22:34 | コメント (0)
ロシアとの経済交流を通じて
円山牧子
5年間、函館市商工観光部でロシアとの経済交流に携わって感じたのは、ロシア人と何か事業をやろうと思ったら、それが文化交流であれ、経済交流であれ、事業のイニシアチブは日本人がとらなければいけないということです。それが事業を成功させる秘訣だと思いました。
例えば、市内のある組合さんは、ユジノサハリンスクにカメラの現像機械を無償で提供し、ペーパーや薬品などをロシア人に買ってもらおうと考えました。しかし、ロシアとの取引の経験がなかったため、この組合さんは、姉妹都市交流をはじめ、サハリン大陸棚開発の後方支援基地化などによるロシア極東地域との経済交流を標榜している市に協力を依頼してきたのです。
私達としては、もちろん全面的に協力するということになったのですが、実はこれが、その後1年半にわたる私の仕事の9割を占めることになろうとは、この時は考えるはずもありませんでした。とにかく、今から振り返ると、実に驚くべきことなのですが、貿易担当の私をはじめ、ロシア交流の先進地と言われるこの北海道に、実践向けのノウハウを提供できるアドバイス機関がほとんどないという事実です。
ある日のこと、実際にペーパーや薬品を買ってカメラ店を始めたニーナさんから、ファックスが届きました。ちなみにニーナさんはこれまで外国と取引した経験のない人ですが、店に度量衡規格委員会の人が来て、「法律第127号によってロシアに輸入される全ての商品には品質証明が必要である。品質証明は輸出者が用意するものであるから、すぐ日本人に用意させなさい。守らなければお宅の店は罰金だよ」と言われましたと。つきましては次回から注意するように、とこうです。
ところが法律書を手にいれて見ると、品質証明の「ひ」の字もなく、輸出者への義務も明記されていません。さては、違う法律で定めがあるのかなと思い、手あたり次第調べまくるのですが、らちがあかず、あちこちに相談すると、「知り合いのAさんが輸出した時はいらなかった」とか「昔は必要だったけどねェ。今はどうかな」というレベルで、結局わからずじまいです。
とりあえず法律のコピーをニーナさんに渡し、「ロシアの役人の言っていることは納得できません。根拠法令をきちんと示さない限り命令には従えませんから、その法律を相手に見せてもう一回相談してきてください」と言うと、1週間くらいしてニーナさんから連絡があり、「確かにここには明記されていないから、どちらが証明をとるかは双方の話し合いによって決めてもいいです。商品についても全部はいりませんが、薬品だけは必要だからと言われました」と言うのです。ロシアの役人は自分が管轄している法律ですら、厳密に運用するという責任感がなく、日本人に指摘されるとすぐ撤回するというプライドのなさは、驚くべきことです。
私が今回の事業を通じて経験したトラブルは大きく分けると2種類あって、ひとつはロシア人パートナーの性質に起因するものと、もうひとつはパートナーの背後にロシアの役人がいて、パートナー自身もトラブルに巻き込まれている場合です。特に後者の場合、パートナーと一緒になって役人と闘わなければならないのですが、一番有効な手立てだと私が考える法律を武器にするということが、そのノウハウが蓄積されていない北海道ではとても難しいのです。ロシアビジネスの最前線では、これまで、個々の業者が、それこそ人脈や金脈(?)を利用して、この闘いに勇敢にいどんできたのでしょうが、それが逆にロシアビジネスに一種独特なスタイルを強要し、結果的に閉ざされた深淵に追いやることになった印象は否めません。
これからは、ロシア人よりもロシアの事情、特に法律に詳しい人材が育成され、北海道企業のためにロシアの役人と交渉してくれるような専門家集団を育てていくことが必要だと思いました、そしてそれはロシア交流を積極的に進める行政の課題であると痛感しました。
「会報」No.7 1998.4.16