2005年09月20日
津軽海峡を封鎖した異国船
秋月俊幸
これは、文化4年(1807)5月に津軽海峡を西から東へ通過した或るアメリカ船の話である。この船は3本マストの1万石積(5、6千石積ともいう)ほどにも見える大船で、海峡の両岸を観察しつつ1週間もかけてゆっくりと航行したという。5月19日に箱館の沖合に接近したときは、帆桁の上に5~6人が登って各自が望遠鏡で町の様子を窺っているのが目撃された。
そのころ箱館には、前年秋のロシア船のカラフト襲撃や同年春のエトロフ島事件の情報が届いたばかりで町中が大騒ぎになっていたので、この船がロシア船と考えられたのはごく自然なことであった。当時この地には幕府の箱館奉行所がおかれ、南部、津軽両藩の藩兵700人余が駐屯していたが、彼らは奉行羽太正養の命で直ちに陣地の構築にとりかかり、夜中はかがり火を明々と焚いて厳重な警戒態勢がしかれたという。老幼者や婦女子は箱館山の山中に避難させられたが、市中の壮年者たちは防衛に駆り出され、街中が未曽有の緊張に包まれたのである。
10年前の寛政9年(1797)、ブロートンの指揮するイギリスの探検船が、異国船としては初めて津軽海峡を通過したときにも松前では大騒ぎとなり、ブロートンによれば、松前市中には武装した騎馬武者が走り回り、軍勢が配置されて旗、指物がひるがえり、ものものしい警戒が見られたという。そのとき幕府は津軽藩に箱館の防衛を命じるとともに蝦夷地に大調査隊を派遣し、そのことが結果的には幕府の第1次蝦夷地直轄を招いたのであった。しかしこのたびは、ロシア船の北辺襲撃の情報と時を同じくしていので、騒ぎもいっそう深刻にならざるを得なかったのである。ただこの船はなんら害を与えることなく、まもなく汐首崎から恵山岬の方へ走り去ったことが確認されたが、同じ頃津軽領の権現崎や南部領大間崎沖でも異国船が目撃されたので、なお暫くは津軽海峡の交通が途絶したのであった。
その後北辺ではロシア船による再度のカラフト漁場の襲撃や、利尻島付近における日本船4隻の拿捕焼却の報が相次いだので、蝦夷地周辺を数十隻のロシア船が包囲したという噂が広まった。その結果噂が噂を呼んで情報の乏しい本土では、松前藩の前藩主道広がロシア側に寝返って蝦夷地がロシア人に占領され、箱館奉行羽太もロシア人の捕虜になったというデマさえ流布したほどであった。このようにしてアメリカ船の津軽海峡への出現は、「文化丁卯の変」として知られるロシア船の日本北辺襲撃事件についての同時代の情報に大きな影響を与えたのである。
ところで、このアメリカ船はボストンを母港とするエクリプス号という船で、船長のジョゼフ・オケインは以前からアメリカの北西岸のロシア植民地に食料や日用品を供給し、毛皮を入手していた。彼は1806年8月に露米会社の本拠地シトカ島(現在のバラノフ島)を訪れたとき、有名な総支配人バラノフにある提案をしたという。 それは露米会社の毛皮を広東へ運んで中国商品と交易するとともに、彼がハワイで見かけた日本の漂流民を伴って長崎に赴き、ロシアのために日本の開港を交渉するというものであった。それまでの交際でオケインを信用していたバラノフはこれに同意し、多数のらっこ皮、てん皮、ビーバー皮をオケインに依託し、二人の露米会社員を同行させたという。
このような企ては文化元年に来日したロシア使節レザーノフの目的と類似しており、バラノフは前年視察のために同地を訪れたレザーノフから長崎における不成功を直接に聞いていた筈なのに、同様な計画をアメリカ人に依頼したのは不思議である。それどころかレザーノフはこのシトカ島において日本北辺襲撃のためにアヴォシ号を建造させ、またアメリカ船長ドゥ・ウルフからユノナ号を購入して、前月の7月末にこの2隻を率いて出帆したばかりであった。レザーノフは、自分の日本襲撃の意図をバラノフにも隠していたのであろうか。
広東におけるオケインの毛皮取引は失敗で、予定の価格の半額にも売れなかったという。彼が長崎に入港したのは文化4年(1807)4月27日のことで、広東でこの船に雇われたイギリス人水夫キャンベルによれば、エクリプス号はロシアの旗を掲げていたが、オランダ商館員の抗議でアメリカ国旗に代えたという。それゆえオケインは長崎奉行所役人の取調べに際してはアメリカ船として申告し、寄港の理由も薪水、食料の不足を口実にし、それらの品を得て5月2日に出帆したのである。彼がハワイから日本漂流民を同行しなかった理由については、彼らがすでに外国船によって中国に運ばれていたことを記した文献を見たように思うが、今回は確認できなかった。
以上のようにこの船は津軽海峡ではロシア船と考えられていたが、それより前に長崎に立ち寄っていたので、やがてアメリカ船であったことが明らかになり、江戸時代に編纂された『通航一覧』のなかでもその記録は「北亜墨利加部」に入れられている。これに対し天保2年(1831)2月に東蝦夷地ウラヤコタンに到来して松前藩の勤番士たちと鉄砲をもって交戦したタスマニヤのホバートを母港とするイギリス捕鯨船の場合は、『通航一覧続輯』の編者たちの先入見によって、その船を「魯西亜国部」に収める誤りを避けることができなかったのである。
「会報」No.9 1998.8.11
投稿者 hakodate_russia : 22:47 | コメント (0)
[北海道新聞連載ゴシケーヴィチ領事報告書記事について]
・北海道新聞モスクワ支局の伊藤一哉記者が、モスクワのロシア帝国外交史料館で、初代駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチの自筆報告書を入手しました。内容は、ゴシケーヴィチ領事が1858年から1865年までにロシア外務省に送った報告書28点のほか、外務省がゴシケーヴィチ領事にあてた指令書3点、ロシアが日本政府に送った公文書の控え3点、当時の函館の地図が2点などです。(=同紙7月26日朝刊)
これに続いて連載が組まれ、7月27日から8月3日まで計7回にわたり、夕刊紙面に記事が掲載されました。以下に、その見出しを紹介しましょう。
(1)「ヨルカ祭 奉行所役人らダンスに興味」(7/27)
(2)「絶景 苦心の末 領事館建設」(7/28)
(3)「商売熱心 医療、造船技術を提供」(7/29)
(4)「将軍と天皇 権力構造解明に腐心」(7/30)
(5)「攘夷 事件相次ぎ募る不信」(7/31)
(6)「対馬事件 乱れる指揮 漂う不満」(8/1)
(7)「限界 努力報われずに帰国」(8/3)
最終回には、ゴシケーヴィチの後任領事が、前任者の業績をほとんど否定する報告書を送っていたということが記されています。またゴシケーヴィチ自身も函館での活動に限界を感じ、最後は辞任願いを提出して帰国したのでした。
新聞には史料のほんの一部しか引用されていませんが、今後この史料が活用できるようになり、日ロ関係史の研究が進むことを期待したいと思います。
「会報」No.9 1998.8.11 ニュース・News・Новость
投稿者 hakodate_russia : 22:45 | コメント (0)
函館こそがロシアセンターの設立に相応しい
ロシア極東国立総合大学函館校 校長 S・イリイン
S・イリイン氏は、ロシア極東国立総合大学の東洋学部部長、東洋大学学長を務められて、昨年(1997)11月から函館校の校長として赴任されました。この間に、1994年9月のウラジオストクに於ける函館日ロ交流史研究会とウラジオストクのロシア科学アカデミー極東諸民族歴史・考古・民族学研究所とのシンポジウムで御報告され、1996年には当研究会の鈴木会長が東洋大学を訪問した折りに交わした、大学との研究交流を進める「覚書」にサインされるなど、私たちの研究会と深い関係にあります。函館においでになってからは、学校の運営のみならず日ロ交流と理解のために、文字通り東奔西走の日々を過ごされているようです。
7月17日の談話会では、函館校の世界的な位置とその役割、「平和条約」の締結へ向けての「プラン」への参画、極東地域の日ロ住民の相互認識の違い、函館校と当研究会との共同事業の提案など、具体的かつ多岐にわたるお話をして下さいましたが、その要旨は次のようなことでした(文責事務局)。
函館校の位置と役割
ロシアの大学で外国に分校を開設している唯一が函館校である。このことはあまりよく知られていないが、今後大きな意味をもつだろう。また函館には旧領事館、ハリストス正教会、ロシア人墓地などロ日交流の歴史につながる「名所・旧跡」があり、学校はその地にある。現在卒業生は少ないが、これが5年、10年と経過するなかでロシアについての専門家が確実に増えて、函館・北海道・日本・ロシアのために働くことになる。函館校がロ日相互の交流と改善に大きな役割を担うであろう。その方向を別な側面から推進する手立てとして、来年(1991)1月から経団連の支援をえて、企業のロシアに関わる第一線の担当者研修を実施することを予定している。
ロシアセンターの設立
函館校には、夜間に実施している市民向けのロシア語学習の「場」がある。ロ日間の平和条約締結へ向けてのプランの一つに、ロシアセンターの設立が考慮されている。ロシアにはウラジオストクなど4地域に日本センターがあるが、相互交流と情報の流れの双方向性を担保するために日本にロシアセンターを開設することが必要である、と提案し、その実現に好ましい感触をえている。函館校としては、これまでのロシア語学習などの実績のうえに、図書資料室・博物室や経済・産業見本展示室などを備えた、ロシア極東地域の総合情報センターとしての「ロシアセンター」を日本で最初に函館に設立したい、と念願している。
「沿海地方」の住民意識
ロシアでは日本が「北方領土問題」として提起することは「日本の領土要求」と称されている。調査時点は1年半前だが、この問題に関する住民の世論調査の一端を紹介しておく。
*これまでの外交交渉等の経過は意義をもたない(32%・中等教育程度・30~49歳・主婦と軍人・日本人の特性―狡さ)*共同開発・共同利用(16%・高等教育程度・20~40歳・日本人の特性―勤勉)*50年以上居住した、今後も住み続ける(17%・義務教育程度・年金生活者・都市労働者・日本人の特性―狡さ)*共同所有・共同管理(10%・高学歴者・日本人の特性―勤勉)*返還する(5%・20歳以下・40~60歳のインテリ)
このような住民意識を考慮に入れながら平和条約の締結に踏み出すロシア政府は、さらにロシア国内全体の世論動向との関わりで「日本の領土要求」問題に対処していかなければならないのが現実である。
「エリツィン・橋本プラン」に象徴されるように、ロ日関係は改善し始めている。東南アジアの財政危機、特に韓国のそれの影響は、ウラジオストクの街から韓国製品が大幅に減少し、ソウル・プサンからの航空観光便も空席が半分程度といった現象をもたらしている。ロシアのビジネスマンに、「信頼できる国・日本」という考えが、浸透し始めている。ロシア経済も従来よりも安定化傾向にあるし、平和条約の締結から「北方領土」の解決に至る道筋は早晩つけられるであろう。
教育者としての私は、さまざまの「真実」を教えることが大事だと考えている。ロシアセンターの設立は、この点からも意義あることだ。
共同事業の計画を進めよう
1999年はロシア極東国立総合大学設立百年にあたる。ロシアの東洋学で最古かつ最高の大学の百年を記念して、ウラジオストクでは多彩な記念事業が計画されている。函館校としても記念事業を考慮しているが、函館校開設5周年という節目の年でもあるので、相応しい内容の記念事業を実施したいと考えている。
そこで提案したいのが、函館日ロ交流史研究会と函館校とが共催して「シンポジウムと研究会」を開催することである。早めに開催へ向けての準備会を結成して、テーマの設定、報告者の人選、そしてこれが最大の難問だが、ロシアから来函する報告者の宿泊は私や函館校の教師宅にホームステイさせるなどして経費の捻出などを検討していけたら、と思っているがいかがであろうか。
[補足]新聞報道によれば、7月下旬にウラジオストクを訪問した函館市の一行は、帰国後に「クリスノフ沿海地方行政府高等教育科学青年政策局長らが、極東大学函館校をロシアに関する情報発信拠点として機能整備する意向を表明した」とコメントした。
談話会でイリイン氏がふれたロシアセンター構想が、前向きに検討されているのは喜ばしいことである。
ぜひ、実現してほしい。
「会報」No.9 1998.8.1 談話会から