2005年09月30日

ウラジヴォストークの印象

保田孝一

 8月30日から8日間、鈴木旭会長のお供をしてウラジヴォストークへ行って来た。わが日ロ交流史研究会とウラジヴォストークの科学アカデミーや極東総合大学の日本研究者と第6回シンポジウムに参加するためであったが、シンポジウムは30日と31日で終わり、あとは市内観光とウラジヴォストークから200キロ余り離れているナホトカなどを見学させてもらった。
 シンポジウムにおいては、最初に鈴木会長が「1920年代のロシア極東漁業と函館の関係」、ついで長谷川健二さんが「1920、30年代の日ソ漁業関係―ソビエト側を中心として」、私が「ロシア革命前の日露関係」を報告し、その後で一問一答があった。
 鈴木会長も長谷川さんも、函館と極東ロシアを結ぶ漁業協力は、1920年代のネップ政策の下で発展したが、30年代に社会主義的5ヵ年計画の進行と共に縮小して行ったプロセスを論じたものである。ロシア側でこれに関係する報告をしたのはマンドリクさんとガリャモヴァさんで、マンドリクさんは学位論文の一部でもある「極東ロシアの漁業史の外国での研究」、ガリャモヴァさんは「漁撈の分野での日露関係史の史料としてのアムール州の国有財産局の報告」を報告した。これについては会長が言及される予定である。
 小生にとってとりわけ興味があったのは、モルグン女史とブラヤ女史の報告「沿海州地方の領域における日本人捕虜滞在の問題によせて」とセルゲエフさんの報告「ロシアの極東と北海道の開発の比較(軍事的植民の視点)」である。
 モルグンとブラヤ報告は、沿海州における日本人捕虜の墓地調査のためのフィールド・ワークと公文書の調査についての国際平和基金のウラジヴォストークの支部の活動報告でもあった。ヨーロッパ・ロシアでは平和基金が、ロシアで死んだドイツ軍人の墓を調査し、管理していることは知っていたが、沿海州では捕虜収容所の通訳だったポリカロフという人が、1996年に「鎮魂譜、沿海州(極東ロシア)の大地に眠る日本人戦没者の霊々」という本を編集し、数部出版され、戦後、沿海州の領域で死亡し、埋葬された日本人捕虜の名簿が発表されていることを初めて知った。この研究の結果、ここに眠る旧日本軍人の個々人の墓のかなりの部分を特定できるようになり、墓参している遺族もいると聞いた。
 セルゲエフさんの報告は、明治時代に北海道にあった屯田兵制がロシアのコザック軍団制の影響を受けて組織されたという話だ。この説はわが国でも専門家の間で常識になっている。我々が驚いたのは現在、コザック軍団がロシアを防衛する軍団として復活しており、すでに法律で保護され、従来の国境警備隊にかわる場合も起こりうるという話だ。まさか北方領土にコザック軍団を配置することはないであろう。この時私はふと、今年5月末サンクト・ペテルブルグのロシア国立史料館の近くで、祭日のために特設され繁盛していたステパン・ラージンというビールの安売り屋台店を思い出した。ここではステパン・ラージンはロシアの農民運動の指導者というイメージはなくなっていた。
 私は報告した。明治時代には皇室外交が活発で、日ロ両国の王・皇族が相互に訪問し合っていた。最初にロシアを訪問したのは有栖川宮熾仁親王で、その時ペテルブルグ大学に有栖川文庫を贈呈された。これは現在でも大切に保存されている。これを知った三笠宮崇仁殿下は1997年9月ペテルブルグの科学アカデミー図書館に三笠宮文庫を贈った。そして今年9月、ウラジヴォストークの極東総合大学に、もう一つの三笠宮文庫1300冊を贈る(9月14日に贈呈された)。
 実は21年前にペテルブルグに三笠宮文庫を贈った時、私は根回しをして手伝った。今回も根回しのためにウラジヴォストークのシンポジウムに参加し、同席していたモルグン女史とアフォーニンさんにの三笠宮文庫1300冊のリストを渡し、文庫を日ロ両国を結ぶ文化の橋にしてほしいと熱っぽく語りかけた。この時ロシアの一学者は、日本にとって北海道はロシアのシベリアで、北方領土はロシアにとっての極東にあたる。早く問題を解決して日本と平和条約を結びたいといった。
 今回のウラジヴォストーク訪問で私が最も望んだのは、極東ロシア国立史料館(РГИАДВ)と沿海州国立文書館(ГАПК)がどの程度開放されているかを調査することであった。9月4日マンドリクさんの案内で前者を訪問し、最後のロシア皇帝ニコライが明治24年日本で大津事件を体験した後にウラジヴォストークに上陸し、シベリア鉄道の起工式に参加して、その後陸路サンクト・ペテルブルグへ向かったことに関係する史料を請求したところ、2000ページを越える3冊の綴じ込みが出て来た。戦時中トムスクに疎開され、最近ウラジヴォストークに戻って来たものだそうだ。実に保存がよい。読者に対するサービスもペテルブルグのロシア国立史料館(РГИА)と同じく良かった。コピー・サービスもあった。そしてすでに数人の日本人が訪れたという。私も元気でいるうちに、再びここを訪れ、どんな興味ある資料があるか確かめたいと考えている。

「会報」No.10 1998.12.8

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アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガ

檜山真一

 わが国のロシア語通訳の草分けで、函館とも縁のふかい志賀親朋(1842―1916)が正教徒だったことは、ほとんど知られていない。二本の彼の小伝には、正教徒親朋についての言及はみられない。小伝はいずれもすべて日本語文献にもとづいている。8、9年前、複数のロシア語文献から、私は親朋が正教徒だったことを知った。親朋研究にとり、この事実は重要である。長崎の悟真寺には志賀家の立派な墓所があり、親朋も仏教徒だとばかり思い込んでいた私には、ちょっとした驚きであった。
 問題の文献と記述は次の通りである。

1、L・パシコーヴァ『極東と東洋のフランス人ならびにイギリス人コロニー(世界一周女性飛行家の日記から)』、オデッサ、1886年。
 「地主で、在サンクト=ペテルブルグ日本公使館元書記官の正教を信じる日本人アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガは、領有地の近くで暮らしている。」

2、フセヴォロド・V・クレストフスキイ「遠方の水域と国々で」―『ロシア報知』サンクト=ペテルブルグ、1886年、第2号。
 「これらの兆候から、V・S・クドリーンはただちに判断した。数年前、在ペテルブルグ日本大使館付書記官だった正教を信じる日本人、アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガ自身がここで暮らしているにちがいないと。」

3、A・A・チェレフコーヴァ 「日本の思い出から。日本の正式晩餐。仏式葬儀」―『歴史報知』サンクト=ペテルブルグ、1893年、第1号。
 「正教を信じる日本人で、約20年前、在ペテルブルグ日本公使館元書記官アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・シガは、目下、ずっとナガサキで暮らしており、ロシア語をかなり上手にあやつり、市内見学や視察の方面でおおいにロシア人の世話をやいている。」

  いずれも日記体の紀行文で、3人のロシア人は、1880年代半ば、長崎で親朋に会って親しく言葉をかわした。彼等の文章から、この頃すでに親朋は正教徒で、洗礼名がアレクサンドル・アレクセーエヴィチということがわかる。
 数年後、親朋の洗礼の時期が明らかになった。V・グザーノフの歴史的スケッチ「チョウ―チョウ―サン―ロシア版実話」(『極東の諸問題』第1・2・3合併号、1992年)のなかに、次のような記述がみられる。

 「数年後、シガはサンクト=ペテルブルグに赴いた。そこで彼は日本大使館付書記官として勤務し、同地で正教を受け入れて、アレクサンドル・アレクセーエヴィチとなり、姓だけは元のシガを残した。」

 1867年と1874年の2度、職務で親朋はロシアに渡っている。親朋が在ペテルブルグ日本公使館付外務3等書記官となるのは1874年(明治7)のことで、このとき、正教の洗礼をうけたのである。3人のロシア人が長崎で親朋に会ったのは、彼が正教徒になって10年余り後のことであった。
 中村健之介氏の教示で、親朋洗礼時のことが具体的に明らかになった。大正5年10月の『正教時報』の親朋の訃報記事「亞歴山志賀親朋翁の永眠」に、次のようにある。

  「露国在勤中露都にてアレキセイ親王を代父にオリガタウィドヮ夫人を代母として聖アレキサンドルの聖名を以て洗礼を受け(以下略)」

 親朋の洗礼名の父称は、アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(アレクサンドル2世の第4子、ロシア最後の皇帝ニコライ2世の叔父)の名前に由来していたのである。親朋とアレクセイ親王との初対面は1872年(明治5)のことで、来日したアレクセイ親王と明治天皇や有栖川幟仁親王との間に立って、親朋は通訳をつとめた。
 親朋の正教入信の動機、父子の確執などの解明は今後の課題である。父親憲は息子がロシア語を学ぶことを嫌い、函館のロシア領事館付の通訳となることに最後まで反対したといわれる。親朋が正教徒になって3年後、親憲は亡くなった。

「会報」No.10 1998.12.8

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はこだて・ロシアの架け橋

山名康恵

 幼い頃、ピアノがほしくて始めたピアノのお稽古。それが、私とロシアをつなぐ序曲であったことは、両親でさえも予想しえなかったことだろう。
 父の転勤でピアノ講師が変わり、レッスンも新たに、ソルフェージュを始めることになった。ピアノ演奏は、演奏する曲目が増えてくるので、幼な心にも自分は音大に行ってピアノ講師になると思い、嫌いな練習も徐々に好きな時間の過ごし方へ変わっていった。けれども、新たな声楽は、いくらやっても楽しくなかった。そんな私を知ってかしらずか先生は私に部活で合唱部に入門するようにアドバイスしてくれ、私は合唱を通じてハーモニーの良さを知っていった。
 かつて先生が参加していた旭川市民合唱団は、海外へ演奏旅行の経験があり、写真などを見せてもらったことがあった。その合唱団が再び海外での演奏旅行の計画があり、私にオーデションをうけるよう勧めてくれた。母親は、この子はまだ小さいからと、迷っていた。家族のなかで初めて海外へいく。しかも私にとって家族と離れることは、修学旅行のせいぜい1、2日ぐらいのものしか今までなかったのだ。けれども、私の心の中では海外旅行も修学旅行も何も違いがなく、よその土地へ行ける喜びに満ちていた。そんな初めての海外が、幸運にも今のロシアである旧ソ連であった。
 世界一国土が広く、「走れトロイカ」や「一週間」などの民謡しか、知っているといえばそれしかなかった。モスクワとレニングラードで過ごした約一週間、リハーサルの毎日と演奏会、そして演奏会後のパーティーと、子供にはとてもハードな日程だったが、移動中のバスの窓越しに見る町並みは、夢見るように美しかった。広い道、石造りの建物、そしてその全てが私には芸術に感じられた。
 演奏会では、鳴り止まない拍手に包まれ、一人一人にカーネーションをもらい、歌で交流する音楽の時の流れのようなものを感じた。ただ、私がやり残したこと、それはロシアの人々との会話。合唱団の少年少女たちとただアドレスの交換をするぐらいと、旅行前に覚えさせられた挨拶しか話すことができなかったこと。どうしても彼らと話すことができずにさみしかった。
 なぜそう思うのか訳がある。合唱団には団長が、演奏会には司会者がいる。彼らのとなりには、必ず通訳さんが立っている。私たちの公演に随行してくれた通訳さんの流暢な日本語にも驚いたが、彼女から発せられるロシア語は言葉というよりも音楽のメロディーに近く、初めて耳にしたロシア語にすぐに興味を抱いてしまった。ロシアの合唱団の団員も同じように話し合っているのを見て、彼らが使っている言葉で歌ったり買い物をしたり、彼らと同じようにお互いが理解し合えるよう、いつかロシア語を学んで再びこの地を訪れようと思った。
 それからの日々、一人でもこの芸術性豊かな町を歩ける語学力を付けようと秘そかに想いはせていた。そんな日々を送り続けていた高校三年の秋、ニュースで、函館市にロシア極東国立総合大学函館校の開校の話題が取り上げられていた。開校は来春、ちょうど卒業と同時期。とても迷った。すでに受験校は決まっていたし、親との話し合いが続いた。ロシア語を自分の一生の時間の今、この時期にやりたいと主張する私に対して、安心して4年間を過ごせ、就職が自ずと決まってくれるような進学を希望する両親。私のことを気遣い心配してくれるのは、親友も同じであった。
 しかし、私の考えは変わることがなかった。人と違った道へ進む怖さよりも、幼いときに自分自身で感じたあの気持ちのチャンスが今めぐって来たのだと。行ったことがないから分からないと、私の函館行きに共感してくれそうにない両親にさえ、「親が大学へ行くわけではない、私が決める。」と言い張った。
 大学4年間で培った時間は、そんな両親をも変えた。
 演奏交流で知り合ったロシアの子供たちをホームステイさせてくれ、その時に手伝いのため帰省した私を見て、私がロシア語で楽しそうに話しているのを見て、うらやましがっていた。
 ここ函館で、私の幼い頃からの夢は、雨上がりの虹のように輝かしくのびていった。大学でも様々な人に出会い、刺激にもなり、ロシアを共有できる仲間にも恵まれ、本当の自分らしさを養ってもらえたように思える。
 学生時代から今にいたるまでお世話になった方々へ感謝しつつ、これからもロシアとの交流に力をそそいでいきたいと思います。

「会報」No.10 1998.12.8

投稿者 hakodate_russia : 11:33 | コメント (0)

函館を訪れたウラジオストクの東洋学院生

原暉之

 ロシア極東国立総合大学は来年(1999年)、創立100年を迎える。総合大学に成長する前の前身校、東洋学院が要港ウラジオストクの地に誕生したのは1899年のことである。以来1世紀のあいだ、ロシア極東随一の高等教育機関は苦難と栄光の歴史を刻んできた。
 以下で述べようとするのは、草創期の東洋学院の一側面である。その第一期生が研修のため函館を訪問した経緯を少しだけ掘り下げてみたい。
 近隣アジアの外国語、外国事情に通じた専門家の養成を目的に掲げ、ロシア政府大蔵省の主導下に設立された東洋学院は、実学の重視をモットーとした。19世紀の末、中東鉄道(シベリア鉄道が中国東北を横断する短絡線)の敷設構想を推進していた大蔵省にとって、外国語を実地に使いこなせる人材の育成は緊急の課題だったのである。学生に外国研修を課したのも建学の精神を反映していた。
 東洋学院は4年制で、学生・聴講生は2年次への進学時に4つのコース((1)中国語・日本語、(2)中国語・朝鮮語、(3)中国語・モンゴル語、(4)中国語・満州語)のどれかに振り分けられた。中国語は全学の教育に特別の位置を占め、全学年・全コースに共通する必修科目であった。これに加えて、コース別に2学年から日本語や朝鮮語などの専攻外国語が必修となる。
 東洋学院の開校式は新入生31人を迎えて1899年10月21日に挙行された。日本語の授業がはじまるのは彼ら第一期生が2年次に進級した1900~1901学年度からである.日本語の担当は、ペテルブルク大学東洋学部で研鑽を積んだエヴゲニー・スパリヴィン教授と彼が日本留学中にスカウトした前田清次講師の二人であった。一般に東洋学院の語学教育は教授の担当する理論編と外国人講師による実用編からなり、例えば中国語・日本語コースにおける日本語の時間数(理論編プラス実用編)は週当たり2年生で6プラス4時間、3年生で3プラス3時間、4年生で4プラス4時間が課せられた。かなりインテンシブな内容といえよう。
 当初31人をかぞえた第一期生のうち、2年次に進級できたのは全体で18人、うち中国語・日本語コースは6人であった。2年次からの日本語授業がハードだったためか、3年次への進級時にはこのコースで3人が落第した。パーヴェル・ヴァスケヴィチとアレクセイ・コベリョフは無事に1900~1901学年度の単位を修得して3年次に進級したうちの二人である(他の一人は聴講生)。
 1901~1902学年度の成績は1902年5月1日の教授会で判定された。同日の教授会記録によれば、6科目合計30点満点で、21点のヴァスケヴィチは合格、18点のコベリョフは不合格と判定された。進級できなければ落第である。ただしこの場合、不合格者については夏期休暇中に予定される外国研修で好成績を挙げた場合に限って留年できるよう当局に申請する、との留保がつけられた。
 1902年といえば、日本の逓信省が大阪の海運業者、大家七平に命じて交通丸、凱旋丸という2隻の汽船を日本海の甲乙2航路に就航させたことによって日露間の海運アクセスが格段に改善された年であった。ヴァスケヴィチは交通丸で敦賀に渡り、新潟まで足をのばした。コベリョフの派遣先は函館であった。
 帰国後、コベリョフは2本の報告書を提出し、留年を確保した。一方、ヴァスケヴィチはその報告書が優れているとして金メダルを授与されている。
 1903年5月にはヴァスケヴィチを含む第一期生9人の卒業が認定された。1年遅れたコベリョフは本来なら1904年5月に卒業できるはずだったが、日露戦争が勃発したため、卒業は延期となった。開戦と同時に東洋学院は卒業生だけでなく、在校生も高学年生から順次、満州の戦場に教え子を送り出したのである。彼らが担った役割は軍事通訳であり、ヴァスケヴィチもコベリョフも例外ではない。
 その後、卒業試験未実施のまま従軍中の4年生について、同年10月20日の教授会は「みなし」の相対評価で成績をつけ、その上申をうけた国民教育省は翌1905年4月2日づけで彼らの卒業を認定した。コベリョフは「及第」、のちにペテルブルク大学東洋学部で日本語を講ずることになる第2期生ゲンナジー・ドーリャは「優秀」の成績であった。このときの記録から、コベリョフがハリコフ神学校の出身者だったことが知られる。
 コベリョフの卒業後の軌跡は不明である。残されている関係資料は、東洋学院の紀要に掲載された2本の報告書だけである。
 まず「1899年の北海道」は『北海道庁第14回拓殖年報』1901年版を翻訳したもので、コベリョフは序文において、「M・M・ゲデンシュトローム在函館副領事の好意により」同書を入手し、「翻訳にあたっては在函館副領事館付き通訳の笠原氏が多大なる協力を払ってくれた」と謝辞を述べている。
 いまひとつの「函館市および1901年の同市における商工業活動の概要」と題する報告書は8章からなり、函館市の沿革、市と周辺部の現況、人口、工業、漁業、物価、通商、対露貿易を手際よくまとめている。
 東洋学院生の分厚い報告書の行間からうかがえるのは、隣国を真摯に理解しようとする学生たちの熱い眼差しである。日露戦争後には、たとえば函館商業学校にみられるように、日本の学校も日本海の対岸を目的地にして修学流行などを組織するようになる。隣国に対する興味津々の眼差しは彼らにも共通していた。
 ただ東洋学院の場合、研修に出る学生は教師に引率されず、団体を組まず、単身の旅行を経験するなかで、教室で習得した外国語に磨きをかけ、外国の暮らしを肌で知り、情報を詳しく記録して同国人のために役立てた点が際だっていた。
 東洋学院は発足の直後から激動のなかにあった。日露戦争の過程でザバイカル州ヴェルフネウジンスク(現ウランウデ)への疎開を余儀なくされた東洋学院は、第一次ロシア革命のさなか、教授会と学生自治会の対立から、一時すべての教育活動を停止する事態に陥った。
 1920年に東洋学院は極東国立総合大学に改組されるが、大学への改組はソビエト政府によって実施されたのではない(沿海州にソビエト政府の威令が及ぶようになるのは1922年11月からである)。このことは不吉な前兆を刻印づけるものであった。スターリンの「大テロル」が頂点に達した1937年には、極東大学の東洋学関係者が一斉に逮捕され、日ソ関係が極度に悪化した1939年には、大学そのものが閉鎖された(ソ連共産党の対日政策責任者として知られたイワン・コワレンコは、閉校される直前の卒業生である)。十数年の中断をはさんで、極東大学が再興されるのは1956年、日ソ共同宣言が調印される年のことである。
 こうしてみると、極東大学100年の歩みは、悲劇の連続でもあった20世紀ロシア史を映し出し、激動を繰り返した日露関係史を映し出してもいる。
 いずれにせよ、この世紀の初頭に東洋学院生の一人が研修旅行で訪れた函館は、現在ウラジオストクと姉妹提携を結んでおり、しかも極東大学が海外に置いているただ一つの分校の所在地でもある。過去だけでなく現在においても類まれな絆によって対岸の港町と結びついている函館市とその市民にとって、極東大学創立100周年の節目は、おそらく意義深い年となるだろう。

「会報」No.10 1998.12.8

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もう一つの「浦鹽斯徳紀行」

菅原繁昭

 このたび私たちの研究会の会員でもある原暉之先生が「ウラジオストク物語」を上梓された。函館を含む日本各地とウラジオストクとの関連にも目配りをされるなど、都市と人を基軸とした日口関係史としても秀逸なものである。
 ところで本文(96頁)の「黒田ミッション」の項で明治11年の黒田開拓使長官一行によるウラジオストク訪問に言及している。そのなかで函館の商人たちも加わり、黒田らに先発して開拓使の函館丸でウラジオストクに向かったとある。渡辺熊四郎がその一員であることは知っていたが、ほかに誰がいたのかと思い、出発間際の「函館新聞」を開いてみると渡辺のほかに平田兵五郎(後の文右衛門)、井上喜三郎、武富龍太郎、吉崎清七、榎森伊右衛門、そして渡辺の手代で「魯語に通ぜし」松井永吉らの名があげられていた(明治11.8.20付け)。
 その動向は村尾元長(函館支庁)と鈴木大亮(札幌本庁)の2人の開拓使官吏によって詳細に記録されており、特に鈴木の著作は明治12年12月に「浦鹽斯徳紀行」として開拓使が発行している(村尾のものは未公刊)。帰国後の函館商人の動きを知ろうと、さらに「函館新聞」をめくっていくと、もう一つの「浦鹽斯徳紀行」に出くわした。それは函館新聞の「社中」の一員でもある平田兵五郎が9月18日から11月2日にかけて同紙に連載したものであり、帰国して間もない時期に発表されたホットな情報であった。これによって函館の人々はウラジオストクという街をおぼろげながらでも理解することになったのではなかろうか。また民間人のウラジオストク・レポートとしても早いほうに属するであろう。
 平田は渡辺とともにいわゆる「洋物商」として函館の代表的な経済人の一人であり、また輸入商品を扱っていることから開拓使が意図した経済ミッションを担う一員として適任者であったろう。
 さてこの紀行の中身を少し覗いてみよう。8月21日、函館を発した函館丸は小樽を経由して27日午後4時にウラジオストク港に到着した。平田たちは上陸後、2年前に開設された日本の「貿易事務館」に宿泊した。翌日、同地に在留している長崎出身の有田猪之助らに宿舎の斡旋を依頼している。一般の旅館の不足や外国人向けのホテルが高価なため、彼らで一軒家を借り、自炊することにしたものである(「渡辺孝平伝」)。紹介されたのは貿易事務館に隣接した空き家、その所有者はデンビーであった。家賃は40ルーブル(当時の日本円で20円)。
 平田は深い入り江を持つウラジオストクの港湾に注目して「兵備には最も要害なる良港」と、その特質を的確に言い当て、6、7年前には「二、三十戸」であったものが現今「二千二、三百戸」と増加しており、さらに「昌隆の地に至る」であろうと述べている。
 また、この当時「東邦沿海諾港の長」(軍務知事)であった「ケフェルツマン」(エルドマン)の人物評にも触れている。彼が赴任する前は無秩序に近い状態が、その任につくと「海陸軍の暴兵を縛し、奸吏を廃し、易に平民中人望あり方正なる者を挙て士官となす」などの改革を施し改善したという。こうした政治的な局面に関心をよせる平田自身とこの種の情報が誰によって(貿易事務官か?)もたらされたのか興味深い。
 このほかに彼は商業事情のことも丹念に記述している。通関手続きや経費、現地で貿易業をする場合の営業税等の諸費、有力外国商人の動向、通貨事情、昆布、煎海鼠などの生産・輸出(この種の海産物関連は函館との競合関係を内包する故に関心も強かったであろう)に関すること。また同地の漁業の景況、物価、そして北海道産の有力商品である石炭の需要事情等と、さすが経済人の確かな目をもった実務的な報告といえる。わずか8日間の滞在記録ではあるが、鈴木らの報告にも遜色ない内容のものといえるだろう。

「会報」No.10 1998.12.8

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国際交流雑感

阿部義人

 私が初めて海外旅行を経験したのは、1991年10月の「ウラジオストク市民交流団」でした。初めて観るロシア・軍港都市ウラジオストクの街並みは函館と類似点が多く、歴史を感じさせるものでした。丁度、「グラスノスチ」が叫ばれ、新たな国創りの胎動が始まりつつありました。この訪問を通して、当選1期目の議員が中心になり、函館市への通訳招聘を実現することができましたし、1995年には私が関わっている社会人のバレーボールチームの交流派遣を実現することができました。その翌年には、ウラジオストク市からバレーボールチームが来函し、選手同士の交流は時間を忘れて深夜に及び、官製の交流とはひと味違った交流が繰り広げられました。
 2度目は、1992年7月に当時の社会党青年議員団会議の一員として、自治体議員の交流の糸口を見出すことを目的としてのソウル市の訪問でした。韓国国内の日本に対する感情も、現在とは大きく違い、相当厳しいものがありましたが、率直に過去の悲しい行為を反省し謝罪するところから話がはじまり、自治体首長・議員の選挙制度や報酬の話に多くの時間を費やしました。(当時ソウル市以外は任命制であり、地方選挙実施が大統領選挙の公約でした。)余談ですが、当時野にあった金大中氏の主宰する民主党にも立ち寄り韓国の改革に向けた息吹を感じることができました。
 3度目は、1995年に北海道平和運動センター主催の友好訪中団への参加でした。この訪中では2日目に交通事故が発生し、団員2名が不幸にも死亡し、事故処理で数日間上海市に滞在することとなり、素早い事故処理と中国国内の人脈を垣間見ることができました。そして、その翌年には遺族と共に現地で1周忌を営むとともに、前年訪問すべき都市を訪問することができました。特に南京では、「虐殺記念館」(現地では「屠殺記念館」)を訪れることができ、日本の忌まわしい過去に接し、胸の痛む思いをしました。
 5度目は、昨年、函館市の姉妹都市であるオーストラリアのレークマコーリー市をスポーツ交流団の一員として訪問しました。250名を越える老若男女の一団による訪問は、手作りの歓迎パーティや種目別の交流とすべてアットホームな雰囲気で心温まるものでした。
 6度目は、今年8月、北海道日中青少年交流協会の第9次訪中団の一員として青島・西安・桂林を訪問することができました。特に今年は、これまでの交流の集大成として、日中双方が浄財を集め、青島青少年活動営地(日本の国立青年の家に該当する)の敷地内に友好公園を建設することができました。また、今後は相互派遣により交流活動の発展を目指すことも確認できました。来年は、青島市から30名の青少年・指導者が函館港祭り開催期間中に来函することとなりました。
 このような私の経験ですが、議会でも何度か国際交流の必要性を訴えてきました。それは、国レベルの外交関係と違って、自治体の特色を生かして様々な交流活動を繰り広げることによって、人的な繋がりが広がり、経済面でのチャンスも生まれることもあると考えるからです。特に、自国以外の文化や歴史に接することは、未来を担う子どもたちにとっても重要な教育の一環と思います。
 こうした角度から考えれば、国際交流にはそれぞれドラマとシナリオが必要と思います。
 函館市はカナダのハリファックス市、オーストラリアのレークマコーリー市、ロシアのウラジオストク市・ユジノサハリンスク市と姉妹都市提携をしていますが、どの分野での交流を主体にするのか明確でありません。つまり、ドラマもシナリオもないと言わざるを得ません。また、交流の主体を担うのは官製ではなく自発的な市民の手によることも必要です。それを行政がサポートするという体制ができてはじめて交流の端緒につけるのではないでしょうか。
 ロシアとの関係では、経済面でのサハリンⅡ関連が注目を集めていますが、これも国際線を有効に活用した多方面にわたるユジノサハリンスク市との交流が活発化してこそ実現できるものと思います。一方、ウラジオストク市との交流は、航空路開設をめざす姉妹都市提携から大きく環境が変化してきています。
 日ロ交流史研究会による極東歴史研究所との研究交流活動は、ウラジオストク市との交流を実質的に担っているものと思いますし、ロシア極東大学函館校を交えた研究活動は、将来の交流活動のあり方として貴重なものと思います。継続は力なり。そのためにも研究交流のあり方は会員の関心に応えることが大切でしょう。私も微力ながら一会員として努力していきたいと考えています。

「会報」No.10 1998.12.8

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研究会の活動を顧みて

鈴木旭

 私たちの研究会は、1993年3月の発足以来今年で6年目になります。研究会発足の動機は、函館とロシア極東地方の交流の歴史を発掘するため、ウラジヴォストーク市の歴史学研究所と交流を続けることでしたが、これまで函館市とウラジヴォストーク市で毎年交互にシンポジウムを開催し、今年で6年目(ウラジヴォストーク市)になりました。これまでのシンポジウムの内容を振り返ると、配布した報告書でご承知と思いますが(一部未刊行)、各年度の報告者とテーマは次のとおりです。

1993年9月(函館)
■ロシア側:Z.F.モルグン「函館ロシア領事館報告について」、A.T.マンドリク「1880-1940年代の極東における日ロ漁業家の経済関係」、B.M.アフォーニン「日ロ関係の発展における人的交流の役割」。
■日本側:中村喜和「函館のロシア人旧教徒の生活」。

1994年9月(ウラジヴォストーク)
■日本側:鈴木旭「1907年の日露漁業協約と両国の漁業関係」、永野弥三雄「19世紀後半におけるサハリンの漁業経営について」、榎森進「江戸時代末期におけるサハリンを巡る日ロ関係」、桜庭宏「覚書 日露戦争前後における地域新聞のロシア観」、清水恵「19世紀後半から20世紀初頭の函館のロシア語学習事情」、檜山真一「日露戦中前後の日本におけるエヴゲーニイ・スパリヴィン」、沢田和彦「プロニスワフ・ピウスツキと日本」、秋月俊幸「日本人捕虜五郎治のシベリア遍歴」。
■ロシア側:S.N.イリイン「極東ロシアにおける日本語の教授」、V・V・ソーニン「北サハリンにおける日本の行政機関とその法律草案(1920-1925)」、V.Vコジェブニコフ「日口関係の形成における北海道の役割」、A.T.マンドリク「19世紀半ばから20世紀初頭の日ロ漁業関係史」、L.Ⅰ.ガリャモーバ「ロシア極東の労働市場における日本人労働者」。

1995年10月(函館)
■ロシア側:A.T.マンドリク「1920-30代のロシア太平洋地域における漁業への日本企業の投資」、V.V.コジェブニコフ「露日国境決定の歴史」、Z.F.モルグン「ウラジヴォストークの日本企業の歴史」、L.L.ラーリナ「極東ロシア人の日本人観」、B.M.アフォーニン「ロ日通商関係の現況」。
■日本側:秋月俊幸「日露関係と蝦夷地」、小山内道子「白系ロシア人の系譜と釧路における足跡」、永野弥三雄「日ロ雑居・ロシア領・日本領の各時期におけるサハリン島漁業事情」、ロシア極東大学函館校A.トリョフスビャツキイ「ロシア史や日ロ関係史を教える際の幾つかの問題」。

1998年6月(ウラジヴォストーク)
 この年は、歴史学研究所開設25周年、アカデミー会員A.I.クルシャノフ(研究所創設者)生誕75周年記念国際会議に招待され、日本側から鈴木旭、榎森進、沢田和彦、玉井哲雄、長谷川健二の5人が参加し、鈴木、榎森、沢田が報告した(内容略)。会議の報告は「世界史の文脈の中のロシア極東」(露文)として出版。

1997年11月(函館)
北大スラブ研究センターとの共催で、交流史研究会と市民交流セミナーを開催。
■研究会:A.T.マンドリク「ソ日・ロ日漁業関係と函館」、L.L.ラーリナ「ロシア極東南部の日本人観」、V.V.コジェブニコフ「ウラジヴォストークと函館市の関係」の報告。
■市民交流セミナー:(1)「サハリン大陸棚開発に伴う後方支援基地と函館」輪島幸雄(会員)、村上隆(北大)、今井孝司(函館市)、宮本勝治(大阪府立大)。(2)「函館とサハリンの交流」ではM.ヴィソーコフ(サハリン州近現代史史料センター)、秋月俊幸(北大OB)、原暉之(北大)。1998年8~9月(ウラジヴオストーク)(略―保田先生の報告参照)。

 このように、これまでのシンポジウムでは、新たな歴史的事実や問題が取り上げられ、両国間の歴史について、一定の共通認識をもつことができるようになりました。しかし、従来の交流事業では、双方の受け入れ体制や予算面の制約で、会員の皆さんの期待に十分応えられないことも事実であり、研究会の事業(会誌の発行、研究会の開催など)や会の在り方について、改めて考えてみなければなりません。
 また予算面でも、当初、函館におけるシンポジウムの開催には北方圏交流基金、函館市の助成金、及びその他機関団体の寄付金等で賄ってきました。ところが最近ではこのような形の資金調達は困難であり、予算面からも事業の再検討が必要になっています。
 因みに、これまでのシンポジウムの開催経費は、シンポジウム参加者は招待国までの交通費(例えば日本側は函館~ウラジヴォストーク間、ロシア側はウラジヴォストーク~新潟間)を負担。入国後の滞在費とシンポジウムの開催費用は招待側が負担してきました。函館で開催する場合、会の負担は、招待者の新潟から函館までの交通費と滞在費、及びシンポジウムの開催費用(会場費、印刷費等)であり、上記の財源でカバーしてきました。
 来年のシンポジウムは、函館が予定されますが、具体的な計画は立っていません。ただ来年は極東大学函館校のイリイン校長から、ロシア極東国立総合大学百年祭の行事の一つとして、共同シンポジウムの実施が提案されています(会報9号)。
 ともあれ、研究会の存り方や今後の運営について、会員の皆さんのご意見を頂ければ幸いです。

「会報」No.10 1998.12.8

投稿者 hakodate_russia : 11:22 | コメント (0)