2005年09月30日
F.B.デルカーチ氏の講演「函館での一年間」を聞いて
岸甫一
デルカーチ氏(写真)の経歴は、1969年、イルクーツク生まれ。子どもの頃から東洋に興味を持ち、高校からは日本に興味を持ちはじめたという。「ソ日交流会」のボランティアで日本語を学び、ロシア国立極東総合大学・日本語学科に入学。ハイレベルの大学で、とくに日本への関心は高いという。1994年に卒業して兵役に就いた後、鳥取県国際課に2年間勤務し、苫小牧と境港を結ぶジャパンエクスポなどに携わり若者と交流する。以上が来函するまでの氏の経歴だが、なみなみならぬ日本への思いがうかがえる。
さて、エキゾチックなまぼろしを抱いて来てみた問題の函館に話題が移った。デルカーチ氏の話は開口一番“来てみてビックリ、ガッカリ”というショッキングな言葉で始まった。その理由は、“いなか精神が強い”こと、特にエネルギッシュな青年が函館から札幌などへ流出してしまう都会としての魅力の無さだ。
氏によるとウラジヴォストークでもイルクーツクでもハバロフスクでも、それぞれ市民には、いなかでない都会としての自信があるという。函館の観光センターは「函館の人々のために存在しているのではない。函館はギリシャのパルテノン神殿のように大都会から人々が来る街なのだ。」「函館は田舎でいられるほど小さな街ではない。」「函館は小さな大都会になる必要がある。」という指摘は、この街の国際性・世界性のリバイバルによる活性化(函館市民は案外気づいていない)と受け止めた。幕末・維新期の国際色豊かな開港場から現在は、札幌を頂点として旭川、函館…という横並びの道内の一地方都市にすぎない。このような地域構造は近代北海道(とくに戦後)の体質といっていいほど道民意識をも規定している。デルカーチ氏の提言は、私なりに解釈すれば、これまでのように道内の一地方都市で甘んじる意識の枠組みから解き放たれることを求めたものだと思う。
私は氏の話を聞くうちに、函館は比喩的に言えば江戸時代の長崎のように規模は小さくとも情報の発信基地になることによって現在の停滞するよどんだ街の空気が蠢き出すのではないかと夢が膨らんだ。少なくともロシアに関する情報は東京・札幌経由ではなく、函館へ行けばロシアのことがリアルタイムで何でも分かる情報のるつぼとなることが条件であろう。
「函館の若者をどう保つか」という方向に話題は移ったが、氏によると「若者が本当に探しているものは刺激だ」という。「夜景と公園」だけではエネルギッシュな若者は去ってしまう。“「グレイ」がもし函館に残ったとしたら”という刺激的な仮定もすかさず提言された。この話題では、若者のみならず各世代の責任、とくに中年が期待されているという指摘があった。私の日頃の感想から言うと、函館に所在する大学を中心とする高等教育機関を卒業した有為な若者が地元に残らず首都圏や札幌圏に流出するのは、必ずしも若者の責任ではなく、むしろこれまで大企業が集中する大都会に就職させることにレーゾンデートルを求めてきた函館所在の高等教育機関の責任のほうが重いと思う。
氏は、現在ロシア国立極東総合大学・函館校の自治会担当であり学生に一番近い立場にある。やはり、「勉強がおもしろくない」という青年の無気力・無関心が悩みの種であるが、最近は意欲の高い学生も来ており、学校も忙しくなってきているとのこと。
最後に、日常生活で困ることはサイズが合わないことだそうだ。日本の大工道具の種類の多さに感動したという。古代からロシアでは斧1本で何でも切り、済ましてしまうという文化の違いも興味深く聞いた。
以上がデルカーチ氏の講演を聞いて私が思ったことを勝手にまとめました。あくまで私の受け止め方であり、かなり私の意見や主観もにじんでいます。それにしてもロシアに近接する我々、函館に住む人間があまりにもロシアのことを知らなさすぎるのではないでしょうか。これには様々な要因があろうが、近世北方史研究者である菊池勇夫氏の指摘する「19世紀前期に成立した『北門の鎖鑰』論的な見方は、きわめて不幸なことに『敵』ロシア・ソ連のイメージとともに近代日本で増幅されてきた」ことが根底にあるように思われる。私自身は18世紀後半、ラクスマン来航を中心とする時期、つまり国境確定以前の日ロの人間関係のあり方を探ることによって日ロ関係の平和的発展のための今日的ヒントを見つけたい。とにかく、ロシアのあらゆる事をもっと知る必要があるという思いから、現在、ロシア国立極東総合大学・函館校で開かれているロシア語市民講座・入門コースに参加して学んでいるところです。
「会報」No.13 1999.10.25
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故国に帰った白系ロシア人の運命 ―ガリーナ・アセーエヴァさんに出会って―
小山内道子
モスクワ滞在中の9月中旬思い立って、約10年ぶりにサンクト・ペテルブルグを訪ねた。「来日ロシア人研究会」で知り合った安井亮平先生のご友人ナターリア・マクシーモヴァさん宅にホームステイさせていただき、目的の調査にもご協力頂いた。ナターリアさんがアファナーシエヴァさんと親しいことをふと思い出して、「もしかして、ヴェーラ・アファナーシエヴァさんにお会いできないでしょうか?」と尋ねると、気軽にすぐお電話して下さって、翌日の午後、お宅に伺うことになった。
ヴェーラさんとは、有名な画家であり、また長年早稲田大学でロシア文学を講じられたワルワラ・ブブノワさんと最晩年を共に暮らして、みとられた方である。東京生まれで、洗礼の時アファナーシエフ家と親しかったブブノワさんが代母になってくださったご縁だった。(ヴェーラさんについては先頃放映されたNHKテレビの「小野アンナの生涯」で紹介されたが、本稿ではヴェーラさんの物語は割愛する)。
ヴェーラさんのお宅に着くと4時を回っていた。「こんにちは、いらっしゃい!」ヴェーラさんはロシア人としては小柄で、自然な日本語が響くので、日本人のお宅に伺ったかのような錯角を覚える。
「こちらはガーリャさん、ズヴェレフさんの娘さん、函館にいた、知ってますか?北海道の方がいらっしゃるというからお呼びしたのよ」とヴェーラさんが、一人の女性を紹介してくれた。
ズヴェレフさん?ああ、あのズヴェレフさん、スパイ容疑で検挙され、1944年獄中で亡くなった方…とすぐに思い出した。釧路に居た白系ロシア人が投獄された時、同時に獄中に居た函館の人として覚えていた。 「ガーリャさんですか?まあ、ペテルブルグに住んでおられたのですか!」ほんとうに驚きだった。予期せぬ思いがけない出会いだった。60代の半ば過ぎだろうか?髪は真っ白だが、ふくよかで典型的なロシア人女性の感じだった。顔の表情は明るかった。その後賑やかなおしゃべりが延々と続く。
不確かな部分は電話で確かめたが、その時のメモからガーリャさんの人生をたどってみた。(以下敬称を略し、「ガーリャ」とした。現在の性は、アセーエヴァさん)。
ズヴェレフ家は1932年頃まで室蘭で暮らしていた。6人の子どものうち上の3人は室蘭生まれ、1933年生まれのガーリャから下が函館で生まれた。
ガーリャがお母さんに聞いた話では、1歳の頃大火があって家は全焼した。それまではパンやケーキも作って店に出していたが、火災の後は洋服屋と行商をやった(34年の大火の被災者の中にズヴェレフ家6名と出ている資料を清水恵氏が来日ロシア人研究会の会報「異郷」で紹介している)。
ガーリャは函館で小学校に入学し、2年生まで通った。だから、九九も日本語で覚えているし、国語の教科書や童謡も覚えていると言って、ほんとうに上手にとなえてみせた。その後、姉や兄が通っていた東京の「ルースカヤ・シュコーラ」(ニコライ堂内のプーシキン学校)に転校し、2年後に卒業した(当時4年制)。ここはインテルナート(寄宿学校)で、同級生にベロノゴフ、カターエヴァ、ユーシコヴァ、パンチューヒナなどがいて、とても楽しかったという(これらの名前は私にもお馴染みで、ほとんど釧路に居た家族である)。先生はゾーヤ・アレクサンドロブナ。すごく良い先生で、子どもたちに好かれ、信頼されていた。東京のいろいろな博物館、展覧会、劇場などへも連れていってくれたが、2年目にアブラーモフ氏と結婚したので、子どもたちは皆がっかりしたそうだ(このアブラーモフ夫妻はアファナーシエフ氏の後「ロシア人クラブ」の管理人を継ぎ、生涯を日本ですごしている)。
卒業後は横浜のセント・モア女学校に入った。兄たち男の子は男子校のセント・ジョージ校に通っていた。1943年セント・モア校が閉校になるというので、既に姉と兄が行っていた大連のギムナジィアに転校した。この学校はロシア人のためのパンシオン(全寮制中学校)で10年制だった。1945年終戦でいったん閉校になったが、翌年ソ連の学校として再開された。この終戦前後の2、3年は食べ物も満足になくてとても辛かったという。
函館の家とも連絡が取れなくなっていた。お母さんが手を尽くして探してくれて、ようやくお互いの生存を確かめあったが、姉兄と4人で大連に留まり、お母さんは2人の妹・祖父とで終戦の翌年東京に移ったという。
1949年、学校を卒業して、行政府から孤児の扱いで下の兄と共にウラジオストックの職業訓練校に送られ、2年間通信技師としての教育を受けた。卒業後兄はチュコトへ、ガーリャはユジノ・サハリンスクへ配属され、それぞれ3年間働いた。その後、兄と共にサハリン北部へ行き、オハとマスカリヴォで計17年間も働いた。その間に結婚し、息子が生まれたが、1968年に離婚してレニングラードに移った。レニングラードには1952年結婚のため帰国した姉が住んでいたからである。ここでは電話局で12年働いた。
1980年、年金を早く貰うため極北で働くことになり、北極海のノヴォシビルスキイ島の“極地センター”でコックとして4年半働く。1985年レニングラードに戻り、年金は出たが、息子が大学に行くことになったので、今度は地下鉄で6年間働いた。今は年金生活で、息子夫婦、孫の4人で暮らしている。姉と下の兄もペテルブルグにいる。姉は脳硬塞のため身体が不自由になっているが、日本語もよく覚えているし、日本のことは何でもよく知っていて、とてもなつかしがっている。
お母さんたちは、1957年に長兄が住んでいるロストフに帰国した。ガーリャたちはそこでお母さんとようやく14年ぶりに再会し、お父さんの死のことも詳しく聞くことができたのだった。お母さんは1965年癌で亡くなった。
末の妹はレニングラード大学東洋学部に進学し、日本語を専攻したが、キューバ人と結婚してキューバで暮らしているが、1995年に日本に旅行して、函館にも行き、お父さんのお墓参りをしてきた。
以上がガーリャさんの波瀾にとんだ人生の航跡だった。暗くなってしまった帰り道、ガーリャさんと腕を組んで歩きながら、「北サハリンや極北は辛かったでしょうねぇ」と聞くと、「それほどでもなかったわよ。私はいつもオプチミストだから」と笑った。「いつか北海道に来て下さいね」に対しては、「残念だけど、たぶん無理でしょうね。飛行機の切符も何もかもすごく高いから」と遠い目になった。確かに普通のロシア人にとって現実は厳しいもになっている。でも、腕に伝わってくるガーリャさんの暖かみを感じながら、いつの日かガーリャさんに60年ぶりの故郷を見せてあげたい、人生の不思議を今一度体験させてあげたいような親しみを覚えた。
ガーリャさんと別れた後、同行のナターリアさんに「ガーリャさんの人生ってすごく過酷だったのね」と同意を求めると、「国内に居てもみんなそうだったのよ。あの時代の人たちは。うちの祖父も父も戦争、革命、国内戦、スターリン時代、また戦争…とずっとひどい時代だったから…」と冷静な答えが返ってきたのでびっくりしたが、考えると確かにそうなのかも知れない。
とはいえ、私にとってガーリャさんの出現は日ロ交流史の新たな一つの証言ともいえるエキサイティングで大へん感銘深い出来事だった。
「会報」No.13 1999.10.25
投稿者 hakodate_russia : 11:56 | コメント (0)
高須治助来函のなぞ
清水恵
今年は、文豪プーシキンの生誕200年にあたり、ロシアでは、記念のシンポジウムが開かれるなどずいぶん賑やかだったようだ。
ところで、日本で初めてプーシキンの作品が翻訳されたのは『大尉の娘』(但し抄訳)であった。『露国奇聞花心蝶思録』という題名で、明治16年に出版されたが、たしかロシア文学の翻訳としても初めてのはずである。訳者は、高須治助といい、東京外国語学校魯語科を中退した人であった(写真は明治11年の外国語学校時代の高須、「小島倉太郎写真帳」より)。
この高須が、明治16年2月から1年近く函館に逗留して、2つの仕事をしている。1つは、「函館繁昌記」(原書は漢文体だが、岩波書店の日本近代思想大系『風俗 性』に読み下しが収録されている)という、いわば、函館の風俗案内書の執筆で、もう1つは、明治16年10月4日から12月10日まで、「函館新聞」に「露文和訳 三重比翼の空衣」という題名でフランス小説のロシア語版からの翻訳を掲載した。この時代に、しかも地方新聞に、ロシア語からの翻訳が掲載されているのは、特筆に値するのではないだろうか。
ところで、N先生から「どうして高須治助は函館に行ったのでしょうか」という質問を受けたのは、もう7年も前のことだったが、今も依然、なぞのままである。
高須自身は、繁昌記の中で「余有事来航此地、遂留焉」と書いている。いったい、どんな「事」があったのだろうか。岩波前掲書の解説によれば、彼は明治13年魯語科中退後、大蔵省の翻訳課に勤務したが、意に満たない生活を送っていたのだという。しかも、繁昌記の序によれば、文士を志していたという。だとすれば、役人生活から抜け出そうと、旅に出たのではなかったろうか。
では、なぜ函館だったのか。一つの可能性として、ここに知り合いがいたからという答えはどうだろう。
東京外国語学校の同窓、小島倉太郎である。小島倉太郎については、秋月俊幸氏の「小島倉太郎少年の魯語学遍歴」(ナウカ社『窓』28号)が詳しいが、明治14年に学校を卒業して、翌年に開拓使函館支庁記録課外事係に採用されていた。
函館新聞に口を利いたり、何かと面倒をみたのではと思うのであるが、皆様からの情報をお持ちする次第である。
「会報」No.13 1999.10.25