2005年09月30日
函館とウラジオストク:日露交流の歴史から
原暉之
1999年の秋、ロシア極東国立総合大学の開学100周年および函館校の開校5周年を迎える機会に、日本海を挟んで一衣帯水の間柄にあり、1992年からは姉妹都市の提携を結んでいる二つのゲイトウェイ・シティ相互の歴史的な絆を3点について考えてみた。
第1点は、函館の開港とウラジオストクの開基の関係である。
江戸幕府が日露和親条約によって函館を開港したとき、ロシアはアムール流域の制圧というピョートル大帝期以来の歴史的課題を達成したところであった。ロシア海軍はアムール河口のニコラエフスクにシベリア小艦隊の主港を置き、そこから、間宮海峡を経由して南部沿海州、東アジア諸国へと向かう外洋航路を開拓するが、この航路に不可欠の寄港地として登場したのが沿海州からほど遠くない北日本の不凍港、函館である。
1854年に「アムールを開いた」、また1855年に「アムールを敵から守った」、そして1858年に「アムールをロシアに取り戻した」とされる東シベリア総督ムラヴィヨフ将軍は、1859年にロシアと清国、ロシアと日本のあいだの国境規定の明確化を目論んで二つの隣国を訪問したが、このとき彼の艦隊は、ニコラエフスク→函館→ピョートル大帝湾→北直隷湾→函館→江戸湾→函館→ニコラエフスクと移動した。
この航跡だけ見ても寄港地・函館の重要性は明らかであるが、最初の函館寄港ののち清国へ向かう途上のムラヴィヨフ艦隊は、南部沿海州を形づくる湾や岬、半島や島嶼などに一連の地名を与えた。ウラジオストクという地名の発祥も、函館を補給基地としたムラヴィヨフ艦隊の遠征の所産である。また、ウラジオストクの開基(1860年)ののち同港にもたらされた最初の輸入品は、函館で購入した食料品や干し草であったことが知られている。しかし、1866年にロシア海軍函館病院が廃止される頃を境に、ロシアにとっての函館の存在意義は薄れ、長崎が圧倒的優位に立つようになる。
第2点は、明治期の地元新聞の相互関係である。『函館新聞』は、創刊の年(1878年)、ウラジオストク道産品見本市について記事を載せているが、1884年になると、ロシア極東の地方紙『ウラジオストク』とのあいだで、双方向の情報伝達をおこなう人物が登場する。
ウラジオストク道産品見本市というのは、維新後10年の殖産興業の成果を示すとともに、対岸貿易の可能性を探るため黒田清隆長官みずからが陣頭指揮をとった、開拓使主催の見本市であるが、函館との関係で興味深いのは、「函館の代表的な経済人の一人」という洋物商、平田兵五郎がこのときのウラジオストク滞在記録を『函館新聞』に発表していることである(菅原繁昭「もう一つの『浦塩斯徳紀行』」、函館日ロ交流史研究会報・No.10)。双方向の情報伝達をおこなった人物というのは、「三県一局」時代の函館県官吏、小島倉太郎である。20代半ばの小島は、『ウラジオストク』の熱心な読者だった。だが、単にそれだけではない。彼はニコライ・ソログープ編集長に同紙の通信員をつとめることを申し出て、それを条件に毎号の郵送をうけ、みずから執筆した記事を投稿する傍ら、同紙の記事を翻訳して地元の『函館新聞』に提供したのである。
北海道大学附属図書館は、令孫の小島一夫氏から寄贈をうけた倉太郎の遺品として、1884年から1885年にかけて合計48号分の『ウラジオストク』紙を所蔵している。その1884年42号(10月14日)をみよう。「此内ニ投書アリ、千島紀行」という1面欄外の書き込みに案内されて、6面をみると、この年の夏、根室県令・湯地定基に随行して占守島に行き、同島に居住する千島アイヌを色丹島に移住させる措置の実施に立ち会ったときの見聞記が載っている。1885年34号(8月25日)の1面欄外には「哥爾薩[コルサコフ]港ヨリノ脱監人一件アリ、右本年十一月十一日ノ函館新聞ニ投書ス」という書き込みがある。実際、同日づけ『函館新聞』には「囚人の脱監」と題する無署名記事がみられる。
第3点は、20世紀の初頭、両都市の学生生徒が相互訪問をしている事実である。
近隣アジアの外国語、外国事情に通じた専門家の養成を目的に掲げて、1899年に設立された東洋学院は、実学の重視をモットーとした。学生に外国研修を課したのも建学の精神を反映していた。1902年に函館を訪れたアレクセイ・コベリョフという名の東洋学院第一期生について、筆者は別の機会にふれたので(「函館を訪れたウラジオストクの東洋学院生」、函館日ロ交流史研究会報・No.10)、詳しくは述べないが、学院の紀要に掲載された彼の研修レポートは上々の出来で、学長をつとめた日本学者D.ポズネーエフも著書『北日本史およびそのアジア大陸・ロシアとの関係史資料』(横浜、1909年)のなかで引用している。
函館の学校からウラジオストクを訪れたのは、函館商業学校生「浦潮見学団」、1908年のことであった。『浦潮商工業調査報告』に掲載された生徒たちの感想文を読むと、彼らは短い滞在ながら、隣国ロシアに接することで世界に対する視野を培うキッカケをつかんだことがうかがわれる。1910年の東京外国語学校露語科、1913年、1914年、1915年の小樽高商の例に見られるように、日露戦争後、1917年革命前の日本とロシアは、日本から学生生徒の一部が隣国ロシアへ修学旅行に出かけるような関係にあった。函館商業学校がそうした動きのなかで先駆的な位置を占めていたことはきわめて興味深い。
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 基調講演要旨
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函館・日ロ交流フォーラムに参加して
工藤朝彦
原暉之氏は、ウラジオストークと函館との交流の歴史を大きく三つの時代に分けて説明されましたが、それぞれの時代で顕著な役割を果たした人物に視点を置き、非常に分かり易いものでした。第1の時代を1859年ウラジオストーク開基、第2時代は1883年のウラジオストーク新聞と函館新聞との関係、そして、第3の時代を1890年代の東洋学院の創立と函館商業学校とウラジオストーク研修生による相互訪問というものです。
第1の時代:極東地域探検に向かうムラビヨフ・アムールスキーは艦隊を率いて、食料の買い付けのため函館に寄港しているが、当時、函館に立ち寄った外国船32隻のうち22隻がロシア船であった。しかしながら、以後、長崎へ外国船が向かうようになったという。ちなみに、1860年6月20日がウラジオストークの開基日となった。また、両市の象徴的な関係として、幕末、函館市で生まれた初のロシア人、ニコライ・マトベーエフは詩人としてウラジオストークで活躍した後、日本へ亡命し死亡している。
第2の時代:ウラジオストークで開催された商品見本市に函館の商人も参加し、幌内炭・ビール・麦を売り込み評判も良かったが、たくさん売れなかったという話が函館新聞に掲載されている。小島倉太郎という樺太生まれで東京外国語学校でロシア語を学んだ青年がウラジオストーク新聞と函館新聞にお互いの記事を翻訳し寄稿している。原暉之氏は、「双方向の国際交流を20代の若さで行っていたことは特筆すべきである。」と言っておられた。
第3の時代:1899年に31名の新入生を迎えて開校した東洋学院。創設に当たり、ロシア大蔵省が大きく関わっていた。当時、東清鉄道の建設に尽力した大蔵大臣ウィッテは、語学教育の必要性を説き、理論(文法)以上に、外国人講師招聘や学生を積極的に外国留学させるなどの実学を重んじた。留学生たちはどのような生活を送ったのか記録は残っていないが、引率は無し、留学記録をレポートにまとめ、同胞のために役立てたという。一方、函館商業学校生39名がウラジオストークを訪問している。青森・小樽・札幌・ウラジオストーク・敦賀経由で帰国しており、わずか2日間の滞在であったが、ロシアに接することで国際的視野を広めるまたとない機会であり、日露戦争に先立って、重視すべき出来事であるという。以後、東京外国語学校ロシア語生や小樽高商の学生がウラジオストークを訪問している。
原暉之氏は、最後に、両市の交流は衰退したこともあったが、函館市の今日的役割はまだ終わっていない。忘れられた過去の一部だが、ソビエト崩壊後、ウラジオストーク開放の翌年に歴史を踏まえて函館市とウラジオストークが姉妹都市になったと括りました。
私は、人と人との交流が、地位、職業や年齢を問わず、国際交流の歴史を形成していき、大きな役割を果たしてきたという事実を再認識することは、これからの交流の在り方や方針を考える上での基本で大事な姿勢であると思います。
続いてパネルディスカッション「都市における大学の役割」がおこなわれ、まず、中村喜和氏が「函館とウラジオストークの共通点は、新しい土地にある古い街。北海道の古都は函館、ウラジオストークはウクライナ・フィンランド・ポーランド・ドイツ人など多民族が住むロシア全体の縮図」という非常に興味深く当を得た解説をされました。ゾーヤ・モルグン氏は、1860年代からのウラジオストーク定住の日本人の歴史と東洋学院について述べられましたが、その内容は、誌面の関係で今回は割愛させていただきますが、両方の都市が輝いていた頃は、国際化が華やかであった時であったことを強調されていました。これからもそうであろうし、大学も国際化が必要、特に教育面での国際化が大事であると力説されました。
私が住む青森には、開学7年を迎える青森公立大学があり、今年創立100年のロシア極東工科大学との学生・教員交流が進められており、ウラジオストークからの留学生が経済学を学び、青森の学生は主に極東工科大学でロシア語を習得しております。また、ハバロフスク教育大学との交流も始まりました。10年前までは、近くて遠い国であったロシア極東の都市と、今、函館や青森などの日本の都市は環日本海地域内で再び隣り街の交流の芽を育てようとしています。
なるほど歴史は繰り返す!
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル
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「函館・日ロ交流フォーラム」を聞いて思ったこと
奧野進
「函館とウラジオストク 都市の発展と大学の役割」と題されるシンポジウムが開かれるというので、ちょっと足を運んでみた。「国際化」、「地域」、「大学」、「情報化」など、現在、話題となることの多いこれらの言葉と関係の深い、このテーマの中で、どのような議論がなされるのか興味があったからだ。中でも、ロシア極東国立総合大学函館校と公立はこだて未来大学という全国的に見てもユニークだと思われる二つの大学が、今後地域としての函館とどういう関係を築いていくのかは、ぜひとも聞いてみたい内容であった。自分の中でも、この二つの大学はユニークだと感じていながら、当日いただいたパンフレットに実行委員長の五嶋慶太さんが書いているように、ロシア極東大学函館校がどこにあるかも分からないという自己の不明さを感じていたからかもしれない。
実際に講演やパネルディスカッションを聞いた感想としては、ちょっと物足りないというのが正直な感想だった。もちろん、時間が短かかったこともあるだろうが、これから本題へという段階で終わってしまったように思う。冒頭であげた様々な言葉も交え、理想や一般的な範囲内での課題や方向性は提起されてはいたが、「具体的には?」「現実は?」といった点で疑問が残る。
今後、未来大学もロシア極東大学函館校もそれぞれの分野で、一方では世界や日本全国を意識しながら、また一方では地域との結びつきを強め、まちに開かれた大学を目指すのだろうが、一市民としての自分とどういう関係になるのか、ぜひとも聞いてみたい。
インターネットやネットワーク化といっても、その情報が生み出される私たちの生活や活動と、どう関係していて今後どういう方向が考えられるのかは示されなかった。蓄積されている様々な過去の情報ほかに、日々新しい情報が生み出されている。どんな情報があり、どんな意味を持つのか、その情報の内容も含めた、そういった目で地域を見つめてほしい。ごく表面的なことや言葉のイメージに惑わされ、掲げられている多くの理念が表面的なもので終ってしまうのではないかという危機感を感じる。言葉と現実の間に大きな溝があると感じている人も多いのではないだろうか。
総体としての函館にかかわるような、これらの大学と住民としての個人が直接関係がないという人、地域のことと一住民とでは次元が違うという人もいるかもしれないが、いくら大きなことでも、最終的にはそれぞれの個人が、賛成であれ反対であれ、なんらかの意見が言える、そのための提案を聞いてみたい。今は、両校ともに関心がない人が大多数であろうが、多くの人を引きつける、そういう魅力や将来性はもっている大学であるとも思う。
現在の状況が劇的に変わることは期待していない。しかし、徐々に変える、その実践の指針だけでも示すような討論があって欲しかった。
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル
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「ビザなし交流」に参加して
永野弥三雄
11月14日の交流史研究会では「戦前のエトロフ漁業と現在のエトロフ島の印象」というテーマで報告しましたが、前半の内容は近く刊行される極東大学の『報告集』に掲載予定ですから省略します。また、後半については、時間の都合で、通訳を引き受けられた荒井信雄氏の質問に答える程度で終わりましたので、若干の補足をしたいと思います。
私は今年(199)の5月22、23日の両日、第8回のビザなし交流に参加してエトロフ島を見聞しました。22日に上陸後、紗那[シャナ]のクリル地区行政府を表敬訪問した時のポドリアン地区長(38歳)の挨拶が印象深くのこっています。若い地区長は「ビザなし交流は8歳。交流の間に新世代が生まれました。それがこの児です。この世代は私たちが持っているコンプレックスや複雑な感情がないのです」と、3歳の娘の手をとりながら私たちに紹介しました。領土問題に対する配慮を示しつつ、解決の方向を暗示したものでしょうか。
交流団はこの後、芸術学校の展覧会、紗那日本人墓地、ベラビナ湾とルイバキ海岸を見てから、初等中学校で純真そのものの子供たちの大歓迎を受け、一緒にバレーボールの試合もやりました。そしてこの晩は、クンチェンコ・ガリヤさん(新聞社編集、45歳)さん宅でのホームステイでした。夕食の席上、家族の紹介があり、長女のクセーニヤ(18歳)さんは、ハバロフスク大学で社会保障を勉強中とうかがったので、「娘さんは向こうで就職して帰ってこないでしょう」と、質問しますと、母親のクンチェンコさんは「とんでもない。娘も私もエトロフ島が故郷ですから帰ってきます」とのきっぱりした答えに、戦後50数年経過した意味を改めて感じました。
エトロフ島の経済状態は色々問題はあるものの、南クリル地区の国後や色丹より良好に保たれており、また交流団に参加した風景画家たちからは「まったく無垢な自然。日本にはない風景」との感嘆の声が出ていました。
ビザなし訪問によるロシア島民との友好親善の強まりは、領土問題は別として望ましいことだというのが私の印象です。
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 研究会報告概要1
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永野弥三雄氏「戦前のエトロフ漁業と現在のエトロフ島の印象」について
麓慎一
永野弥三雄氏の択捉漁業に関する報告の紹介と2、3の感想を述べることにしたい。永野氏の報告は、統計資料と地図を配布して行われた。
まず、統計資料について触れておきたい。昭和36年の『北方地域資源調査書』から以下の8つの統計が利用された。(1)戸口数(昭和13年)[留別・紗那・蘂取]。(2)村別入稼者数(昭和13年)[留別・紗那・蘂取]。(3)択捉島における旧定置・特別漁業権。(4)択捉島における所在地別、漁業権者数及び漁業権数(昭和11年5月)。(5)着業統数(昭和14年から16年平均)。(6)漁業制度別漁獲金額(昭和14年16年平均)。(7)村別魚種別漁獲量(昭和14年から16年平均)。(8)水産加工品の村別生産額(昭和12年)。永野氏は、以上の8つの統計資料を駆使して戦前における択捉漁業の動向を説明された。
永野氏の報告は、漁業という択捉島の基幹産業を通じてこの島の特質を実証的に説明するものであった。報告の意義は多方面に及ぶのだが、ここでは私が特に興味を持った点について述べることにしたい。第一に、(4)の漁業権者の所在地別についてである。永野氏は昭和11年における択捉島の漁業権者数の総計131人の内、在島外の権者66人について説明された。66人の在島外の権者は、函館漁業者43人・根室漁業者11人・その他12人に分かれている。ここで興味深いのは、函館の漁業者が根室の漁業者を大きく上回っている点である。択捉島は根室の漁業領域と思っていた私には興味深い指摘であった。さらに永野氏は、国後島は択捉島と異なり根室の漁業者が多いことも付け加えていた。
また、先の択捉島における43人の漁業権者の権利数は922に及ぶ、と指摘した上で、この権利数の約3割が栖原家のものであることも説明された。私は、江戸時代の場所請負商人である栖原家がこの昭和初期においても択捉島において多くの権利を有して漁業活動を継続していたことに驚かされた。栖原家と言えば、江戸時代における屈指の場所請負商人として知られるものの明治以降の活動はほとんど注目されてこなかった。この点でも永野氏の報告は刺激的であった。
第二に、択捉漁業の中心が鱒漁にあったという点である。この点を永野氏は、(7)の「村別魚種別漁獲量」を中心に解説された。昭和14年から16年の平均値で、魚類合計8,421,770トンの内、鱒が5,039,470トンと約60パーセントを占めている。さらに、鱒漁は権利統数に対する着業統数も53パーセントと高率であった(鮭漁は18パーセント)。永野氏は、このような事実を提示して択捉島における鱒漁の重要性を指摘した。
第三に、戦前における択捉島の生活についてのエピソードも興味深いものであった。このエピソードを話される際には、択捉島の生活の様子が分る次のような著作が利用された。(1)鹿能辰雄(1910~1981年)『北方風土記 択捉島地名探索行』(1976年11月)。(2)今田正美(1902~1982年)『鮭のむくろ考 北洋漁業人の記録』(1977年7月)。(3)皆川弘(1922~1994年)『択捉島漫筆』(1996年3月)。これらの著書を紹介しつつ択捉島の生活の様子を説明されたのだが、一つだけ紹介することにしよう。戦前期の択捉島には、当時の流行の品物が多く流通していたというのである。それは、択捉島にはカタログ販売が導入されていたからであった。電化製品なども意外と普及していたというのである。商品流通から取り残されていたであろうと想像していた私には、択捉島の印象を一変させるエピソードであった。これは単に商品流通だけの問題だけでなく、当時の択捉島が漁業収入による大きな購買力を有し、北方地域の中では高い生活レベルを有していたことを示しているのである。
このように、永野氏の報告は多くの示唆に富むものであった。残念ながら氏が「ビザなし交流」で得た現在の択捉島の知見については十分な時間を得ることができなかった。それでも、討論の際にいくつかの印象を述べていただけた。その中で択捉島民のロシア人が若い世代のロシア人が日本に対してタブラ・ラサの状態であり、これから友好的な関係が生まれることを望んでいる、と永野氏に述べたという話しを紹介された。私は日露関係が民間レベルで新たな局面を迎えつつあると強く感じられた。
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル
投稿者 hakodate_russia : 21:23 | コメント (0)
1875~1903年のサハリンにおける日ロの協力関係
アナトーリー・マンドリク
ロシア極東漁業の発展史を考察する場合、サハリン漁業は、日本人とロシア系漁業者が肩を並べて漁業を行っていたという点で、特別の意味を持っている。19世紀後半以降ロシア人の移住が増え、ロシア人と日本人漁業者の接触が始まった。1855年1月(露暦)の日魯通好条約(下田条約)で両国間の修好関係が成立した。条約によってサハリン島は、「境を定めずに」として、日ロ住民の雑居地とされ、サハリン島の日本人漁業がそれまで同様続けられることになった。しかし、その後のサハリン島では、ロシア兵による日本人漁村の襲撃、定置網の破壊、強制移住などの事件が起きた。当時アニワ湾にはすでに多数の日本人漁業者が定住しており、多額の漁獲を揚げていた。
両国の対立が続く中で、1875年榎本公使とゴルチャコフ外務大臣との間で樺太千島交換条約が調印された。この結果サハリン島は、ロシアに帰属し、千島全島が日本に引渡された。ただサハリンにおける日本人漁業者の既得権が認められ、日本人が引続きサハリン島に居住して漁業に携わることが可能になった。しかも日本人漁業者には免税特権が与えられ、税金は燃料用薪の伐採税、加工上の土地利用税に限られていた。
交換条約後は、日本人漁業者のサハリン進出が活発になり、特にテルペニア湾では多数の漁区を取得した。このような日本人漁業者の急増に脅威を感じたロシア政府は、1899年12月沿海州における日本人漁業者の活動に対して新たな規則を制定した。それによると漁業者は毎年漁業権の更新が必要になり、ロシア漁業者には、漁区、漁船、漁獲量などで優遇措置がとられたが、日本人には、定住漁村が強制移住の対象となり、閉村が迫られるなど、ロシア当局の日本人漁業者に対する様々な締め出し政策がとられた。
またこの時期は、セミョーノフ、デンビー、ゾートフ、クラマレンコ、ナデツキー、そのほかロシア系漁業者、あるいは企業がサハリンで本格的に漁業を始めている。これらロシア系漁業者の日本市場における活動について、詳しいことは清水恵さんの論文に譲ることにして、彼らは技術、労働力、生産物の販売面で日本市場に大きく依存していた。1904~1905年の日露戦争は、日本側の漁業生産を困難にしたが、ロシア側も日本市場を喪失して事業の縮小を余儀なくされた。こうした日ロ関係が戦後の日露漁業協約につながっている。
今日は日露戦争までの時期ということで用意してきたが、日ロ漁業関係史を勉強するなかで、疑問にしてきた問題がある。それは戦争、革命といった両国関係がきわめて複雑で、様々な出来事に満ちていた歴史の中で続いたロシアと日本の漁業分野の協力(ソビエト期でも)、ないしは漁業関係が何らかの肯定的な成果をもたらしていたか、ということである。
私の結論はいかなる時期でも、肯定的成果につながる協力関係が断ち切られたことはない、ということである。その理由は、第一に中央部、西部からきたロシア系漁業者が、極東海域の漁業開発のノウハウを全く持っていなかったこと、第二はロシア漁業家は、デンビー商会はじめ、水産物の販売は専ら日本市場に依存していたことである。これに近い関係はソビエト政権移行後も続いた。例えばソビエト政権初期の極東漁業では漁具の50パーセントが日本から輸入され、最初のカニ工船4隻は函館ドックで建造されている。当時両国政府の外交関係からは、想像できない活発な協力と交流がおこなわれていたのである。
最後に今一度1855年の下田条約を想起して、未来永遠の友好を約束した条約の精神で、今後両国の人々、特に漁業者間の協力関係が続くことを期待したい。
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 研究会報告概要2
投稿者 hakodate_russia : 21:20 | コメント (0)
サハリン島住人と日本人漁業の関係
清水恵
マンドリク氏はロシア極東漁業史の第一人者で、研究所を退職されてからも研究を続けられている。そして1998年には博士号取得という快挙を成し遂げられた。深い敬意を捧げずにはいられない。
さて、日本人のロシア領における漁業といえば、かつては「資源の掠奪」といったように否定的、対立的な側面が強調されていたようで、マンドリク氏も、そこから出発したのだろうと思う。しかしその後の研究では、日本人漁業者の参入がロシア側にとって有益な点もあった事実を示され、本報告でも日本との協力関係に重点を置かれた。
ロシア国内では、ほとんど誰も省みるもののなかった極東の水産資源の価値をロシア人に自覚させ、産業として成長させたのは、確かに日本人であった。
ところで、土地の住人たち、サハリン島でいえば、アイヌなどの少数民族、人口の大半を占めた流刑民や移民たちと、日本人の漁業との関係はどうだったのか、ということが最近気になっている。
少数民族は、「資源の収奪」に加え、労働力も収奪されていた。また流刑民や移民は、ごく少数を除いて、水産資源を「富」に換えられた人はいなかったようだし、かといって一時期を除いて、雇用の場でもなかったらしい(J・ステファンによれば、1901年に、漁夫として働いた日本人が7000人以上なのに、ロシア人は、わずかに170人である)。
彼らと日本人漁業者には、どんな接点があったのか、是非、マンドリク氏のご教示を得たいと思った。
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル
投稿者 hakodate_russia : 21:19 | コメント (0)
沿海地方における日本人墓地
ゾーヤ・モルグン
第二次世界大戦終了後、半世紀以上が経過した。ロシア人も日本人も含め何百万人もの運命に悲劇が広がり、癒しがたい傷が戦争を思い起こさせる。人間生活という観点からみたソ連領内の収容所における日本人捕虜の暮らしは、日露関係史における悲惨なページである。
1988年の夏、私は沿海地方の南部にある墓地への旅に参加することができた。若い日本人の亡骸が眠っている場所に行って、彼らの親戚や昔馴染みの友人たちとしばしの交流を行い、その人々がどう思ったのかを感じたかった。
ロシア平和基金沿海地方支部は沿海地方在郷軍人会とともに、1991年から日本人捕虜の埋葬されている場所を探して、墓地の整備や記念碑あるいは標識の建立を行い、また1992年3月16日付けの沿海地方政府令に基いた遺体発掘作業が、平和基金の定款ならびに1991年4月18日付けの「軍事捕虜収容所にいた人々について」(日露間の合意による調査)に基いて、地方政府や現場自治体の参加のもとに組織的に行われた。
研究会での報告については『報告集』を参照していただくとして、ここでは、報告でふれられなかった具体的な資料を紹介しておきたい。歴史的資料からは、113の墓地が確認されている。その内60個所が沿海地方の地図に記されている。沿海地方における埋葬者の追悼という本が出版され、6246人の記載がある。死者の数が最も多かったのは1945年~56年とされている。この頃捕虜が駆り出されたのは、沿海州第18経営団で、「沿海炭坑」コンビナート、「極東鉱山」管理局、「沿海森林」管理局、「極東材木」管理局、海軍第7建設部、同第8建設部、「極東漁業管理局」、「クライトープ」、製鉄工場、発電所(ウラジオストク第1水力発電所、「アルテムグレス」)、太平洋艦隊技術部、合板工場管理局(太平洋工場)、農務省(3個所の米作集団農場)、食品工場(砂糖工場、ウスリスク油脂工場)、沿海鉄道、「沿海建設局」、造船工場(極東工場、当時の第202工場)、道路建設局、そして国境警備隊等であった。
1945年から46年にかけて到来した冬に高い死亡率を示した原因は、「著しい衰弱の基での非常な低温と気候への不適応、不十分な栄養状態と衛生状態、必要な治療施設の欠如であった」。第15収容所長の記録によれば、「労働は、更に捕虜の健康の悪化と弱体化を招いている。殆どの場合作業場までの歩行による移動は規定範囲を超え、捕虜の作業場には暖かい食物は出されず、沸かした湯もなければ、沸かす場所もない」。第9収容所長は、「10人で構成している班の一つでは、短期間に5人が死亡、3人は隔離室に収容、2人は健康」と第15捕虜収容所長に報告している。死亡の主たる原因は肺炎であった。それ故、捕虜たちはペチカやたき火の近くで暖を取った。傍から離れるとひどく冷えた。全ソ連共産党沿海州地区委員会書記ペゴフ名による極東鉱山管理局の第1捕虜収容所における状況に関する調査書によれば、「2016人の日本人のうち、栄養失調が原因で病気または衰弱のため137人が入院し、400人が全く同様の原因で労働から解放されている。最近日本人の死亡が顕著になった。33人が死亡。1月1日から3月16日までに18人死亡した」。
1946年4月4日、全ソ連共産党沿海州地区委員会事務局は、「収容所における捕虜の待遇について」の決議を採択した。これにより捕虜のための十分な兵舎が建てられ、居住面積が拡張された。各部屋には洗濯場と乾燥室が設けられた。ノルマを達成しまたはそれ以上を達成した捕虜に食料を増量するため、各部屋には毎月2トンまでのじゃがいもと野菜が配給されることとなった。
この決議があったにもかかわらず、いくつかの収容所では、1946年の夏から秋になっても未だ捕虜にとっては耐え得る安住の状況にはなかった。集団営林場「チェパル」の近くにある第47収容所で多くの死者を出した原因は、生活と労役に耐え得る条件が欠けていたためであった。遠く離れた収容所まで車路がないため、30キロの沼地を、捕虜自らが手渡しで物資を運搬しなければならなかった。その結果栄養状態が悪化し、運搬に従事する者は急速に衰弱し病気になって、その一部は死亡した。
全ソ連共産党沿海州地区委員会書記ペゴフ名の報告書の中で次のように伝えられている。1946年8月末現在、早くから「極東鉱山」に送られていた3000名の捕虜のうち195名が死亡、衰弱した者及び病気の者520名を朝鮮に搬送、213名が入院中、350名を収容所の劣悪な生活条件を考慮して他の組織に移した。
第25収容所の状況報告によれば、1946年には次のような状況が典型的だったことが明らかである。「住設備は、今にも壊れそうな穴居。土の床。採光不良。洗濯や干し物ができる場所はない。不満足な労力使用。労働の生産性は40~60パーセント(スーチャン駅から15キロの第3収容所「カザンカ」)。
こういった条件下では、多くの日本人は故国へ帰る日まで生きられる運命になかったことがわかる。歴史資料に基づいて、6476名の埋葬者名簿が作られた。しかし、多分、実際はこの数字はもっと大きいだろう。沿海地方管轄にいた捕虜のおよそ10分の1は死亡した。
後年、収容所の生活条件が好転した。目撃者の話では日本人と近隣の居住地の住人たちや、収容所の軍人の家族との間に暖かい人間的な交流が生まれたことが珍しくなかったという。このことについて、私はこの件にかかわった日本人やロシア人から、何度も話を聞いた。
二つの戦争で亡くなった人々の霊、すなわち日露戦争後日本の捕虜になったロシア人と第二次世界大戦で捕虜になった日本人の霊は、記憶の架け橋であり、私たちみんなに戦争の悲惨な結果を思い起こさせるものである。
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル 研究会報告概要3
投稿者 hakodate_russia : 21:17 | コメント (0)
Z・モルグン報告「日本兵の墓地調査と鎭魂集の発行」を聞いて
佐藤一成
私も約2年間、シベリアに抑留された。終戦後から1947年(昭和22)7月下旬までである。シベリアの捕虜としては、一番短い期間であったろう。場所はイルクーツク市郊外で、第6収容所という収容所に入れられ、主力は近くの煉瓦工場で働き、一部はハルビン駅の石炭降ろし、街の水道工事、煉瓦積み、道路補修等の労働に従事した。
1946年12月下旬、シベリア鉄道沿線でイルクーツクより西方のマリタという処に移動し、森林(いわゆるタイガー)に入り伐採作業をおこなった。直径1メートル以上の大木(主として松類)を2人引きの鋸で切り倒し、一部はベニヤ板の材料に、一部は薪にした。ここで初めて幕舎生活を経験したが、まさに冷凍庫の中の生活であった。
翌1947年3月末、部隊はナホトカへ。4月初旬、祖国日本へ帰還した。全員無事、死者は1名もなかった。ただし、私は通訳であった為に7月下旬までナホトカに残され、日本兵帰還の手伝いをさせられた。7月27日、舞鶴港に上陸した。船から見た日本の姿の美しさは未だに忘れられない。
モルグンさんの報告を聞きながら思った。ただ帰りたいの一念で働き続けたのに、その想いかなわずして、異国の丘に埋められた我が戦友の、この世の不条理に対する叫びが、今、地の底から聞こえてくるような想いがあった。
60万からの日本軍将兵等が捕虜としてソ連に連れ去られ、そのうち死亡した者、将兵等合計6万1217名だという(ソ連「軍事歴史雑誌」1991年第4号 S・I・クズネソフ『シベリアの日本人捕虜たち』<岡田安彦訳>1999年9月刊、集英社)。今回のモルグンさんの調査・報告はその一部であると思われるが、それが一沿海州地方のものであるにせよ、我々日本人にとって感謝しなければならないだろう。
モルグンさんがこのことに手を染めたのは、幼い頃から近くに居た大人達の中に、昔、日本人の捕虜が居て、ウラジオストクの街の色々な建物を建て、道路を補修したりして、働いてくれたということを聞いたことによるという。しかし、そのことを聞いた人々総てが日本人捕虜の実態解明に手を貸してくれているわけではないと思う。モルグンさんのお仕事が歴史研究であることも関係しているのかも知れないが、彼女の心の中にあるヒューマニズムの強い流れが、国境を越えた調査・研究活動を支えているのだろう。同じように、ロシア平和基金沿海州地方支部理事長ゴーリヤさん、更にこの墓地調査等の仕事に関わって、ロシア全土で草の根的に活動を展開して下さっている皆さんにもいえることであろう。厚く感謝申し上げたい。
「鎭魂集」を作るにしても先立つものが無い。墓地調査の活動にしても政府からの財政援助を得るのが非常に困難になって来ているという現状の中で、「今日この活動を続けているということは、これは是非やり遂げなければならないという情熱に燃えた個人的努力の賜であると思います。私もこうした活動を成し遂げることを通して、私自身の研究を意味あるものにしていく決意を新たにしております。」と報告を終える際にいわれたモルグンさんの言葉に深い感動を覚えた。
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル
投稿者 hakodate_russia : 21:15 | コメント (0)
函館・日ロ交流フェスティバルを終えて
種田貴司
平成11年1月
函館校の新年度の事業計画および予算等について打ち合わせ
校長「新年度は極東大学開学100周年、函館校開校5周年を迎えるので、第2回はこだてロシアまつりの開催に合わせ国際会議を開催したい」
事務局「国際会議となると同時通訳装置が必要になり、莫大な経費がかかります。函館校が開催するのは困難です」
校長「ぜひやりたい」
事務局「ウーン」
平成11月2月
事務局「校長先生、国際会議を行うとすれば○百万円かかります。学校の予算規模を考えると、まつりに合わせて講演会を開催する程度でいかがでしょうか」
校長「本学の100周年でもあるので、ウラジオストクからも研究者を呼んでパネルディスカッションくらいのことはやりたい」
事務局「通訳の要らない日本語の通じる人が来てくれるのであれば、経費もそれほどかからないので、なんとかなるでしょう。日ロ親善協会や日ロ交流史研究会の皆さんとも相談しながらやってみましょう」
その後、卒業式、入学式など新年度を迎える学校行事、さらには今年4月から新設した社会人のための短期ロシア語集中講座「インテンシブコース」に伴う業務のため、準備作業は停滞。
平成11年7月
日ロ交流史研究会などとともに内容の検討に入り、「第2回はこだてロシアまつり」、「函館・日ロ交流フォーラム」、「函館日ロ交流史研究会」を合わせて「本学開学100周年・函館校開校5周年記念・函館・日ロ交流フェスティバル」として11月13日、14日に開催する方向で準備作業に入る。
平成11年8月
札幌国際大学荒井信雄先生を訪問し、パネルディスカッションのコーディネーターを依頼。快諾を得る。
平成11年9月
函館日ロ親善協会、函館日ロ交流史研究会とともに実行委員会を設立
11月13日
午後8時 函館校事務室にて
終わった。やっと終わった。「都市形成と大学の役割」だなんて大上段に振りかぶったフォーラムがやっと終わった。どうなることやら、門外漢の私には不安だらけのフォーラムの開催。
実行委員会の規約や予算、補助金の申請書をつくったり、旅費計算ならお手のものだけど、函館とロシアとの関わり、高等教育機関と地域との関わりなんて、私はど素人。一応ウラジオストク物語もロシアにおける広瀬武夫も読んだけれど、しょせん付け焼刃。
フォーラム開催の日は近付けど、どういった内容になるのか皆目見当もつかず、不安がつのる。でもまあなんとかなるさと、気を取り直し、ロシアまつりの準備もしなくては。
ところで今日のフォーラムで上映したビデオ、これは奥平先生からご指摘のあったとおり、素人の作品。ウラジオストクの歴史や自然を紹介したビデオがなかったため、9月にウラジオストクに行った事務局の畠山さん―本日の司会者です―に撮ってきてもらったものです。案内はモルグン先生にお願いし、画面にときどき出てきた手はモルグン先生の手です。
中村先生のお話にもあったようにウラジオストクには数多くの観光資源があるので、プロの手によるウラジオ紹介ビデオがあると良いのに。来年はウラジオストク開基140年とのことなので、これを機に作れないものでしょうか。
さて、今日のフォーラムでどのようなことが話し合われたのか、私にはわかりません。というのもフォーラムの間、夕食会の出席者の変更や座席をどうするかなどでほとんど会場にいなかったからです。明日の交流史研究会、ロシアまつりと合わせて報告書を作成するつもりなので、その時に何度もテープを聴くことになるでしょう。フォーラムでなにが話し合われたか、お知りになりたい方は報告書が出来上がるまで今しばらくお待ちください。最後に、夕食会の席上、出席者の皆さんから来年以降も引き続き、こういった会議開催の希望がありました。今回は初めてのことでしたので、不安でいっぱいでしたが、やってみればなんとかなるさと、楽天的に取り組んでいきたいと思っていますので、交流史研究会の皆様、次回もよろしくお願いいたします。
(ロシア極東国立総合大学事務局)
「会報」No.14 2000.1.20 特集 函館・日ロ交流フェスティバル