2005年09月30日
カムチャツカ訪問記 ―カムチャツカ国立技術大学を訪ねて―
鈴木旭
去る3月26日から4月7日までの2週間、NPO『カムチャツカ研究会』の要請を受け、カムチャツカ国立技術大学の特別講義を行うため、ペトロパブロフスク・カムチャツキー市を訪問した。
3月23日新潟空港を出発してハバロフスクに一泊、翌24日現地時間16時30分(日本時間13:30)に、ペテロパブロフスク市近郊のエリゾボ空港に到着した。飛行中、雲の合間から覗かれるオホーツク海は、一面流氷が張りつめ、カムチャツカの山々も真っ白な雪に覆われていた。3月末とはいえ、現地は未だ寒さが厳しいものと予想された。然し空港に降り立つと、天候は曇りながら、気温はプラス5度前後と意外外に暖かく、路面の氷も溶けて春の訪れを感じさせた。
今回訪ねたカムチャツカ国立技術大学は、1987年に創設されたペトロパブロフスク・カムチャツカ高等技術海事学校が前身で、その後カムチャツカ国立漁業船団アカデミー(マリン・アカデミー)に変わった。それまでの学校は、主に海員養成(トロール漁業船団の)を目的にしていたようであり、1999年に現在のカムチャツカ国立技術大学に名称を変え、航海学部のほか技術学部と経済学部を併設する総合大学に拡充されている。
講義では、カムチャツカの水産物に関係する日本国内の流通(魚市場)の仕組み、日本人の魚の食習慣等、日本の水産物消費の特徴や日本漁業の現状を紹介した。受講者(学生と教員)の日本の水産業に対する関心は大きく、色々な質問が出されたが、中には、ロシアのカニの密輸に日本側も関わっているのではないか、北方四島の帰属、さらには日本の政治状況(森内閣の支持率の低さ、短期間に内閣が変わること)について、予想しなかった見解を問われ、戸惑いを感ずる場面も多々あったが、学生のまじめな聴講態度と、日本に対する関心が広い範囲に及んでいるのが印象的であった。
また質問(教員)の中には、日本における「企業に対する国家発注」、「大学卒業者の就職の決め方について」、「企業経営に対する国家の助成(資金、資材の調達、生産物の販売、価格形成等)の有無」といった、かつての社会主義時代の国家統制、計画経済を思わせる質問や発言があり、市場経済についての認識が十分根を下ろしていないことがうかがわれた。
滞在中、カムチャツカ教育大学の広瀬健夫先生(1997年信州大学定年退職後赴任)の要請を受け、州立図書館の日本文化センターで《日本漁業の歴史》というテーマで4回、戦後の日本漁業の展開過程や、戦前・戦後の日ソ・日ロの漁業関係について話をした。出席者の発言に、日本漁船の流網によるサケマスの漁獲に対する批判、北方四島はロシア固有の領土で日本への返還は反対といった率直な意見も出されていた。ただ日本漁船の流網によるサケマスの漁獲は政府間の合意の下で行われていること、四島の帰属問題が、ヤルタ会談に始まるソ連の対日戦争参加の経過、日本軍降伏以後のソ連軍の北千島進攻といった歴史的事実関係の認識で、双方に大きな食い違いがあることに驚かされた。ソ連軍の千島への進攻が、ヨーロッパにおけるヒットラーの侵略に対する祖国防衛戦争と同じ、祖国領土の回復のための戦争と受け止められているように思われた。このような歴史的事実についての認識の食い違いが、日ロ両国間の信頼関係の構築や国交正常化を阻んでいるのではないだろうか。
両国の関係改善には、まず両国関係の歴史的事実について、特に次世代を担う若者と一般市民の中に、共通の認識を深めていく努力が必要なことを痛感した。
「会報」No.17 2001.6.18
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『共同研究 ロシアと日本 第4集』を誤読してはいけない ―私にとってのロシアを導く糸として―
桜庭宏
家に迷い込んできた雑種の柴犬と一緒に暮らし始めて10年になる。いわば難犬(?)として保護したのだが、今では私にとってかけがえのない共生者となっていて、四季折々の表情をみせる鉄道防雪林をこの犬と散策できることに感謝している。散策の道すがらに、ひとつの美術館、木村捷司記念室がある。ここで展覧に供されている、網を繕う男とその側に蹲まる一匹の犬が描かれている一枚の絵、「網を繕うギリヤーク」になぜか心が魅かれた。
かつて私の父が職探しでサハリンへ出かけた折りに写生した、ホルムスクの旧王子製紙工場のスケッチの一部が私の手許に残されていたこともあって、記念室の木村裕行さんからこの絵が描かれた事情などをお聞きするに及んで、サハリンの景観をこの眼でみたい衝動を抑えがたくなった。この絵と出会ってほぼ一年後にサハリン行きは実現した。このサハリン行については、「会報」第5号掲載の田島さんの紀行文にゆずるとして、私にとって、ロシアへの思いはかくも情緒からの出発なのだ。
そんな私にとって、長縄光男さんたちの共同研究報告書『ロシアと日本』は、私流のロシアへの思いに、「意外に深みと広がりとを」与えてくれる「仕事」である。それは、「はしがき・目次・本文・活動報告・人名索引」を含めてA5判260有余ページのこの報告書が、人と人との地味な交わりの歴史を繙くことによってこそ、日本とロシアが「真の相互理解」に至る道が開かれる、という考えを研究活動の根底に置いているからであろう。17人の執筆者が描く「世界」は、「来日ロシア人と日本文化・北の地の来日ロシア人・日本を訪ねて・大陸の亡命ロシア人・日本正教会のロシア人・ミセレーニア」の6つに構成されていて、そのどれもが、新資料の発掘と紹介、事実の確定と再構成などを通して、執筆者の研究視角やそこに込められた動機を静かに語っているだけでなく、私のロシアへの思いを醗酵させる「Something」がある。
それだけにこの報告書は、研究者だけではなく、日ロは言うに及ばず外国との相互交流の推進活動を担っている、政治家、行政担当者、経済人、市民にこそ読まれるに相応しい内容が盛り込まれている。幸いにもこの報告書は、『異郷に生きる―来日ロシア人の足跡―』として、成文社よりハードカバー版(2800円)も刊行されているのだから。
一枚の絵に出会ってサハリン行きを実現した私が、小山内道子さんの「トナカイ王ヴィノクーロフの生涯―北サハリンと樺太の狭間に―」から読み始めたのは当然のことであった。小山内さんは、サハリンの郷土博物館で購入された、N・ヴィシネフスキイ『オタス』(1994年刊)の紹介を中心に、サハリンを舞台に政治を利用しつつもそれに翻弄されたヴィノクーロフの生涯を素描し、あわせて「先住民のモデル村」と喧伝されていた「オタスの杜」の実像を明らかにしている。私にとって小山内さんの論考は、木村捷司が描いた「シェークと犬」、「シャーマンのつどい」や前記の絵など一連のオタス作品を観賞するうえで大きな手助けとなるだろう。また、コルチヤク派の治下で富を築いたヴィノクーロフのニコラエフスク事件後の政治情勢とのかかわりを記述した箇所は、「土足の正義」なる言葉とともに、かつて演習で読まされた週刊誌連載の「派兵」を遠い記憶から引きだしてくれた。
政治を利用する「ヤクート商人」のヴィノクーロフの「本質」と思想的な「反ソ連・ヤクーチア独立」の「本心」、その狭間で揺れ動いた彼の行動をどう読むのか。「歴史の大きなうねりに個人の力では抗しきれず、……悲惨な運命をたどったといえるだろう」の次に続く課題は、小山内さんならずとも重い。
函館の外国人墓地を訪れた人は、ロシア人墓地のほぼ中央に、チャペルのような営造物があるのを記憶していよう。この建築物については、ある時からよくわからないままに過ぎてきていた。
清水恵さんの「サハリンから日本への亡命者―シュウエツ家を中心に―」は、この営造物が、函館で毛皮・洋酒・砂糖などの取引業を営んでいた、ドミトリー・シュウエツの墓であることを明らかにした。
もちろん、清水さんの論考の主眼は、サハリンからハルビンを経て函館へ亡命したドミトリー・シュウエツ家の足跡にかかわらせながら、当時のサハリンと日本の状況を明らかにすることで、ドミトリーの孫の妻とその娘さんからの聞き取りと新聞資料や文献などで手堅く考察している。ドミトリーの函館での足跡のひとつ、税関をめぐる事件は、彼の死亡事件とともにスリリングな側面を示しているだけでなく、シュウエツ家はじめスパイ容疑を晴らすために日本軍へ献金した亡命ロシア人と日本社会を考えるうえで示唆的である。シュウエツ家の戦中から敗戦後の足跡を素描したうえで、この家の歴史や白系ロシア人の歴史の探索は、「極東のなかの日本」を側面から照らし出すことにつながる、とする清水さんの結語にあるように、シュウエツ家に伝存されてきた写真や書類などに具体的にふれた論考を期待したい。
私にとって幼少時に「最も身近な西洋人」は、「私のカラリョフさん」で、父母の仲人村田信一の猟仲間で、菓子を持ってきてくれる大事な人だった。白系ロシア人という言葉を覚えたのもこの頃であった。「白系ロシア人との交流からも豊かな栄養分を吸収していた」から、谷崎潤一郎の文学が大樹のように生い茂った、という中村喜和さんの論考「最も身近な西洋人―谷崎潤一郎の作品に描かれたロシア人―」は、谷崎の「細雪」に至る作品に登場するロシア人の描かれかたなどの紹介を通じて、「白系ロシア人社会の一端を垣間見」て谷崎の作品世界と白系ロシア人との濃密な結びつきを語っている。
沢田和彦さんの「日本における白系ロシア人の文化的影響」は、白系ロシア人を緩やかに定義して、服装から食物・美容などの「日常生活への影響」や音楽・オペラ・バレエ・社交ダンス・映画・絵画の「芸術面の影響」、ロシア語・ロシア文学・日本文学・哲学・民俗学の「教育、研究面の影響」、野球・レスリング・ラグビー・サンボ・相撲の「スポーツ面の影響」を人物覚え書き風に整理された仕事である。沢田さんがあげた人物はじつに多岐多彩、「私のカラリョフさん」もいて、報告書巻末の「人名索引」ともども基礎作業の重要さを改めて痛感させられた。
影響を与えた人物の一人、N・ネフスキーを追い続けている桧山真一さんは、「ネフスキーのもうひとりの娘を探して」を執筆されている。桧山さんと私との出会いは、1994年9月にウラジオストクで開催されたシンポジウムに函館日ロ交流史研究会の驥尾に附して参加した際に、宿舎で同室させていただいてからである。夕景になじむレニンスカヤ通りの散策にご一緒し、危うく私が路上売りのアイスクリームを買い占めそうになったのを、流暢な会話でチャラにして下さったことなどが懐かしく思いだされます。論考の「娘探し」に至るスリリングな部分は、桧山さんの歴史上の事実と真実への飽くなき探求心が発露されている。「今後の最大の課題は光子と若子の写真・墓を捜しだすこと」、だそうだが、過日頂戴したお葉書では大願成就とのこと、何よりである。
私の最初の外国行きが、「ロシアとアジアが交わる街」ウラジオストクでしたから(原輝之『ウラジオストク物語』)、当然といえば当然なのだが、街を歩いて強く印象に残ったのは、多様な民族、とくに中国東北部・朝鮮地域の人たちが当たり前のように存在していたことだった。異国で「当然の存在」となっていくのは、多種多様な事情が絡み合いかつ積み重なってのことだろうが、倉田有佳さんの論考「元山のロシア人難民」を読んで、このことがまず頭に浮かんだ(これぞ誤読)。1910年に朝鮮が日本の植民地にされると、大量の朝鮮人が生きる糧を求めて中国東北地域や沿海州一帯へ移住していった、その生と死のドキュメント『カレイスキー―旧ソ連の高麗人―』(鄭棟柱著・高賛侑訳)の読後感がいまだ強烈に残っているからか。
1922年秋、半数以上が赤軍戦での傷病兵を含めた陸海軍人であった「ロシア人避難民」が、2週間の間にウラジオストクから元山(現朝鮮民主主義人民共和国)へ定員のほぼ8倍、9000人以上もが艦船等に分乗して避難してきた。倉田さんの論考は、このロシア人たちの9か月間の事情を、当時朝鮮を植民地として支配していた日本の朝鮮総督府内務局がまとめた『露国避難民救護誌』(1924年)に基づいて明らかにする、ひとつの試論である。この『救護誌』と当時のハルビン、ウラジオストク、東京で発行されていた新聞・雑誌などを補足的に用いて、「元山への避難・避難民への救援措置・元山の避難民生活・避難民に対する措置・避難民労働団・避難民の退去」の実情が紹介されている。「避難民の救護に当たった側からの視点」からとはいえ、元山に残った避難民の最も望んだ農業就職希望への扱いや労働能率をめぐる記述などは、日本植民地下の朝鮮支配や現在の日本における外国人・難民のことなどにあれこれと思いをめぐらす手がかりを与えてくれた。
避難民救護といえば、1923年の関東大震災の救援に横浜に入港した、ソ連船レーニン号が退去を命じられたのを知る人は少なくなった。7年前ウラジオストクを訪ねた際に、「救援船出港地の碑」が在ると知って捜したのだが見つからなかった。その関東大震災で倒壊し、炎上した東京復活大聖堂の復興に大きな力を果たした、セルギイの働きを、「倒壊・復興・建設」の三つの面から緻密に跡づけたのが、長縄光男さんの「日本の府主教セルギイ(チホミーロフ)の栄光」である。長縄さんの謦咳に接したのは、昨年夏に黒河の船上からヴラゴベシチェンスクを望見した、中国東北旅行の折りであった。口髭をたくわえ修業僧のような眼差しでお話する様子を間近にして、逝きし函館の面影を教える「ニコライ堂遺聞 明治初年の函館正教会点描(下)」(「地域史研究 はこだて」26号)の筆者ならではの感を深くした。
大地震で聖堂の倒壊と炎上に直面したセルギイをして、「苦悩の果てに行き着いた」「何よりも心の復興のために」「ただひたすら前進あるのみ」、と決意させるに至るところの描写は、震災下の「例外状況」からいかにして脱出をはかるかに苦悩した地域のサブリーダーにみられた「心性」とも通底するのではないか。「桜庭さん誤読してはいけないよ。」、髭に手を添えて語る長縄さんの声が響くようだ。私にとって神田聖橋のニコライ堂は、高塀で街路の騒音が遮ぎられた敷地内で、授業をエスケープしてはコーラスの響きを心地よく楽しむ格好の場所でもあった。
函館日ロ交流史研究会の会員と長縄さんが執筆された論考に限って、私にとってのロシアを導く糸として紹介、いや誤読感めいたことを書いてしまいました。妄言多謝。
「会報」No.17 2001.6.18
投稿者 hakodate_russia : 21:48 | コメント (0)
A.T.マンドリク著「ロシア極東の漁業史1927年-1940年」の要約の試み
A.トリョフスビャツキ
ご存じのように著者は、ロシア極東の歴史、特に漁業史では有名な研究家であるが、昨2000年に出版されたこの本は函館の歴史研究上でも、大いに参考になると思われるので、以下に概要を翻訳して紹介する。
1920年代後半にソ連では五ヶ年計画に基づいた社会主義建設が進められていた。その時に共産党中央委員会や人民委員会議の決議によって国営漁業の構造改革も行われていた。ソ連極東に於ける第一次五ヶ年計画(1928・29~1932・33年)草案では中心が置かれたのは漁業分野の発展であった。しかし中央機関(国家計画委員会や最高国民経済会議)のなかには経費がかかり過ぎる遠い地方より革命前から開拓した地方の産業の発展に力を入れた方が合理的だという考え方が強かったので、極東からは資源や半製品だけを海外市場に輸出すれば良いと考えられた。
第一次五ヶ年計画前の1927年に、ソ連の総漁獲高は革命前の85%しか達成しなかった。全国の魚介類の漁獲高の71.8%は昔から開発した漁区が占めていたが、北極海やロシア太平洋沿岸の新しい極東漁区は27.2%しか占めていなかった。五ヶ年計画では国営漁業企業の急速な成長率とともにロシアや海外の民間漁業家の役割を削減することも予定されていた。国営漁業企業セクターに「ダリゴスルイブトレスト」、カムチャツカ株式会社(アコ会社)、サハリン株式会社(アソ会社)などが属していた。特に期待されたのは海外市場で日本企業と競争できる缶詰分野であった。
五ヶ年計画では主な輸出地域としてカムチャツカと北サハリンが定められ、そこから魚や蟹缶詰などが輸出された。1929-1932年にカムチャツカから海外市場への水産物の輸出額は2860万ルーブルで、1930-1932年に北サハリンからは4968.6トンの水産物と缶詰の9万8180箱が輸出された。1928年のパリ博覧会に展示された北サハリンの塩鮭はグランプリをとった。極東地域の水産物輸出は外貨、特に日本円の獲得になった。1927-1930年には輸出で1億2090万金ルーブル相当の外貨が得られた。その金でソ連側は日本から蟹工船に改造された船舶、機械、漁網などの漁業資材を買付けた。日本の関係企業として(株)函館製網船具(250万円)、大洋漁網商会(100万円)、(株)日本漁網(75万円)、葉加瀬商店(40万円)などが挙げられている。
第一次五ヶ年計画末には極東漁区は全国の漁業漁獲高の29.2%、カスピ海漁区は35.2%、黒海・アゾフ海漁区は19.7%、北極海漁区は11.6%、アラル海・バルハシ漁区は4.2%を占めていた。極東漁区は、漁獲高では国内だけでなく、世界的にもかなり目立つようになった。たとえば、1932年にはその漁区の漁獲高は、イギリスの45%、アメリカの33%、日本の約20%に達していた。
当時、ソ連の極東漁業では、ロシア人労働者と並んで日本人漁夫や労働者が雇用されていた。その人数は1929年に3万475人、1930年には3万8559人であった。日本人の雇用に掛かった経費は1928-1932年に4090万7千円であった。1930年から次第に雇用の規模は減少しはじめる。
アコ会社が雇用した日本人労働者の数は次第に減少し続けていた。1928年に会社の労働者の34.6%は日本人であったのに対し、1929年に33.2%、1930年に19.5%、1931年に6.2%、1932年に3.3%まで減少した。同じ現象は他のソ連の漁業企業でも見られた。
第二次五ヶ年計画(1934-1939年)で、ソ連政府はサハリンやカムチャツカの総合的経済発展とともにその地域の輸出力を維持することにした。極東地域では強力な造船施設がなかったことや、中央ロシアから船舶を極東に移動させるため莫大な経費が掛かったため、ソ連側は日本の造船所で1937年までに合わせて800万円の契約で192隻の船舶を建造した。1941年までに極東漁区は全国の漁業漁獲高で二位を占めるようになった。
1930年代のソ連では一国社会主義論の下で全体主義的国家建設が進められていて、それは協同組合運動に直接的影響を与えた。漁業では今までの小規模なコオペラチブ(協同組合)の替わりに漁業コルホーズ(大規模な協同組合)こそ社会主義建設に相応しいと考えられるようになり、全国的に集団化が行われるようになった。1928年1月に16しかなかった漁業コルホーズの数は7月に147まで増え、1929年1月までに356の漁業コルホーズができた。その漁業コルホーズには、ソ連全体の個人漁業者の60%を占める9万37人を集団化させた。中央ロシアでできた幾つかの漁業コルホーズが極東へコルホーズごと移住させられたこともあった。
1933年の漁業に於ける集団化率は80.9%、1934年に86.2%、1935年に93.6%を達成した。極東でも1935年の集団化率は90.5%まで増えた。
1930年代初頭にソ連国家は明らかに個人漁業者の打倒政策を取り、そのため革命前のいわゆる「ブルジョア専門家」の多くはその職を追われ、「妨害活動」の嫌疑をかけられて裁判で有罪とされた。極東でその大規模な粛清の始まりを意味していたのは統合国家政治局OGPUによってでっち上げられた「ダリゴスルイブトレスト妨害事件」であった。逮捕された多くの極東漁業の幹部や個人漁業者は、反革命組織をつくり、日本の三菱や日魯漁業の手先に使われ、ソ連の漁業を妨害し、最終的にソ連から独立した国家を極東で宣言し、それを日本の保護下に置くかのように供述した。逮捕の波は極東全域に広がった。(未完、次号)
「会報」No.17 2001.6.18