2005年09月30日

高須治助訳『花心蝶思録』をめぐって

安井亮平

 1883年(明治16年)6月に、『露国奇聞 花心蝶思録』が東京で刊行された。原作はプーシキンの最後の長篇小説『大尉の娘』(1836年)。わが国最初のプーシキンの単行本である。ロシア文学としてもこれが最初の単行本であった。
 東京外国語学校でロシア語を学んだ高須治助が原作から訳述したのを、当時の人気作家服部撫松が校閲したのだが、今日の理解では到底翻訳とはいえない、独特の作品である。
 原作は、「私」ピョートル・グリニョーフがその体験と見聞を孫のために記した一人称体の手記であるが、『花心蝶思録』の方は、三人称体で、その訳者序文で謳っているように、あくまでもピョートルとマリーヤの二人の若き恋人の「情史」中心である。プーシキン自身の歴史研究『プガチョーフ反乱史』(1834年)を踏まえて描かれるプガチョーフの反乱の様子とか、プガチョーフをはじめとする、恋人たち以外の登場人物の記述とか、風景描写や心理描写は、ほとんど省かれている。その量も原作の五分の一ほどにすぎない。主な登場人物の名前も、たとえば、主人公のピョートル・グリニョーフはジョン・スミス、その父アンドレーイ・グリニョーフはジョン・グリー、その母アヴドーチヤ・グリニョーワはジョネサン・サラムスと、姓と名を混同した、なんとも奇妙なイギリス風に変えられている。
 訳文は、漢文の読み下し体で、各章に七言の題詞が付されている以外、漢詩が随所にちりばめられている。当時もてはやされた、明治初期の翻訳史上画期的な、リットン著丹羽純一郎訳の『欧州奇事 花柳春話』(明治11年)張りである。『花心蝶思録』という題名も、『花柳春話』に倣ってつけられたものらしい。ちなみに『花柳春話』の校閲者も服部撫松であった。
 高須の訳文に服部がどの程度手を加えたか、一体「私」の手記という一人称体の原作が、なぜ、どの段階で、誰によって、三人称体と変えられ、「情史」中心の作品となったのか、などなど、詳かでない点が数多ある。
 『花心蝶思録』は、内容や文体からいって、また分量から考えても、決して『大尉の娘』の翻訳とはいえないのだが、しかし逆に、一人称体の作品を三人称体に改作するという、面倒で困難な作業をいとわず、ヨーロッパの文学作品を、自らのことばと文化に拘りつつ、紹介しようとした、明治初期の先人たちの辛労とがんばりには、頭が下がる。
 『花心蝶思録』について詳しくは、来年1月刊行予定の「新日本古典文学大系、明治篇」第15巻『翻訳小説集 二』(岩波書店)所収の小生の校注をごらんいただければ、幸いです。

 高須治助は、『花心蝶思録』の出版される(明治16年6月、ただし版権免許は前年11月)少し前、2月ころからしばらく函館に滞在した。この時の見聞をもとに、函館の主として花柳界の風俗を描いた、漢文体の『函館繁昌記』を著し、17年に刊行した。
 16年10~12月には「函館新聞」に、フランスの情話(原典不明)をロシア語より翻訳して、人情本風の『三重比翼の空衣』(未完)を連載した。これについては、桑嶋さんと清水さんにお世話になった。改めてお礼申します。
 まだ高須の函館に来た事情とか、滞在期間、その間の生活など明らかでない。どうかご教示のほどお願いいたします。

 研究会で報告した時には、まだ市立函館図書館を高須の件で訪れていなかったので、席上何度かその旨お断りしたのだったが、あの数日後訪ねてみると、案の定、図書館に高須の著書が6部所蔵されていた。その中4部は初見だった。『中央亜細亜露英関係論』の原著者はテレンチェフ、『馬術警策』の方は、マホチーヌイ陸軍少将であった。
 さすがに市立函館図書館。改めて脱帽。報告の前にまず図書館に行くべきであったと、反省することしきり。どうかご海容のほど。

「会報」No.18 2001.10.24

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高須治助と函館図書館 ―安井亮平先生のお話から教えられたこと―

菅原繁昭

 今回の交流史研究会の茶話会は、函館近郊の大沼に来られているという安井亮平先生(元早稲田大学教授)がわざわざ函館まで足をのばしてくださり、お話してくださった。高須治助といえば当地では「函館繁昌記」(明治17年刊)の作者として知る人ぞ知るといった存在である。ちなみに清水さんが会報No.13掲載の「高須治助来函のなぞ」のなかで、来函事情等について推論を交えて紹介している。
 このたび、安井先生は、プーシキンの「大尉の娘」ロシア語原本と高須治助が翻訳した「露国奇聞 花心蝶思録」のコピーを携えて、いろいろな角度から翻訳の妙について話してくださった。高須治助が翻訳するに際し底本としたものが1869年のペテルブルク版であり、それが旧東京外国語学校から東京高等商業学校(現一橋大学)に伝わっていくが、その根拠として高須が原書のミスプリ部分をそのまま訳出していることで判明したといったくだりは、まるでミステリーの謎解きのようであり、思わず聞き惚れてしまった。
 ところで函館の歴史研究に関わりを持つものとして、明治10年代の函館の様子を記述した高須がどのような人物であったのかということに関心を持つのは自然なことであろう。安井先生は、そうした我々の関心にも丁寧に応える形で高須治助の略年譜を用意してくださり、それを紐解きながら、高須治助のロシア語と翻訳という世界を通してみた彼の心情にも肉薄しつつ、その歩みから伺い知れるその人となりを実に懇切な語り口で教えてくださった。
 ロシア文学といえば、かつて良く読んだ部類として、いわずもがなのドストエフスキーからはじまり、大学に入ると周囲の影響もあってゴーゴリ、ロープシン、そしてソルジェニーツィンくらい。自分にとり、プーシキンといえば、チャイコフスキーの「エヴゲーニイ・オネーギン」、はたまた、グリンカの「ルスランとリュドミラ」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」といったロシア・オペラの台本の原作者といった印象が強いのが正直なところである。しかしプーシキン自体は遠い存在であっても、いざ高須治助がプーシキンの初の邦訳者と聞くと俄然、プーシキンが身近になるというのもおかしなことかもしれないが、これが函館の地域史フリークというやつであろうか。
 さて安井先生の作成された年譜をたどると高須治助は秋田藩士の富岡英之助の二男として生まれているのが分かる。富岡英之助という名前に見覚えがあったので、もしやと思い「函館繁昌記」の奥付を開いてみるとたしかに出版人の欄にある。高須治助の実父はこうした形で実の息子を支えていたといえるだろう。また治助は14歳(明治6年)で父と同じ秋田藩の藩医である高須松亭の養子に迎えられている。この養父の勧めで治助は、翌々年の8年に東京外国語学校露西亜語科に入学する。時の政府が「魯清韓」の3か国語を修得する者に奨学金を出したそうだ。そのためもあって没落した旧幕府の人々が、時流に乗っているとはいえないロシア語を学ぼうとしたものが多くいたそうだ。松亭が治助にロシア語修得を勧めた背景も、同じ文脈でとらえることができるという。そうであれば治助自らの意志でロシア語に向かったわけではなく、そうしたことが、その後の彼の人生にも陰を落としたようである。
 この養父にあたる高須松亭は、沢田和彦氏の研究によると、ロシアの使節として1853年に長崎に来航したプチャーチンが日本側の応接掛に提出した書簡(オランダ語)を江戸で翻訳しているという(「I.A.ゴンチャローフと二人の日本人 」『スラヴ研究』45号(1998)所収)。であれば経済的な事情とともに、かつて対ロシア関係において少なからぬ関わりをもった松亭は人並み以上にロシアへの関心を持ち、その想いを養子の治助に託したのではないかと想像を逞しくしてみる。
 さてプガチョフの乱に題材を求めた「大尉の娘」の翻訳本「露国奇聞 花心蝶思録」は、明治16年に刊行されているが、現在、サンクトペテルブルク、国立国会図書館、それに早稲田大学図書館の3冊のみが確認されているそうだ。挿絵は月岡芳年の手になる。彼は「浮世絵師の最後の偉人」とか「明治の浮世絵師」と呼ばれ、残酷趣味の絵も描き評判になったほか、洋風を融合した独特の描法で歴史上の事件に取材した作品を多く制作したことでも知られている。でも彼の浮世絵と、この挿絵のタッチはずいぶん違うように思えるが、いずれにしても当代一流の絵師を登用すること自体、なかなかのものだ。
 ちなみに原作には挿絵はなく、これは日本の読者の理解を助けるために創作されたものなのだろう。この芳年の挿絵は、服装、顔つき、室内の様子や背景など、どれをとってもリアリティがなく、日本的に変形されており「似て非なるもの」である。この翻訳本が1910年にロシア国内の雑誌に紹介された時に奇妙な挿絵が掲載されていると評価されたという。確かにエカテリーナやマリーの顔もロシア風とはいえないものの、未見の世界を想像しながら描いたものとしてはなかなかの出来映えだし、何よりも稀代の浮世絵師とプーシキンという取り合わせが面白い。
 さて「花心蝶思録」は明治19年に改訂版が出され、その題名も「露国稗史 スミス、マリー之傳」となる。改訂版も安井先生が確認されているのは国会図書館(4図)、早稲田(6図)、個人蔵(3図)だけという(括弧内は図版の点数、本によって差がある)。ところが茶話会の席上で桑嶋洋一さんから市立函館図書館にも「スミス、マリー之傳」があったはず、それ以外にも高須関係のものが複数所蔵されていると教えていただいた。後日、追跡調査をしたところ、いわば稀覯本といえる「スミス、マリー之傳」ミス、マリー之傳」の4冊目が確かに所蔵されていた。また高須がロシア語の原書から翻訳したもの4点、編集に関わったロシア語辞典の1点も確認できた。「スミス、マリー之傳」の挿絵は6図あるので、これは早稲田本と同じということになる。
 図書館に収められた年代順で列記してみると、「露和袖珍字彙」(昭和10年・個人寄贈)、「馬術警策」(同11年・東京明治堂購入)、「スミス、マリー之傳」(同12年・東京明治堂購入)、「中央亜細亜//露英関係論」(同13年・時代や書店購入)、「露国教育法」のみ不詳。すべて明治時代に刊行されているが、図書館に入ったのは昭和10年代に集中している。大半は古書として東京方面から購入され図書館に納められたものである。おそらく当時の図書館長岡田健蔵の独特の嗅覚が働いたものと思われるが、どのような意図があって購入したのか非常に興味深い。彼にとって高須治助はどのような位置を占めていたのだろうか。 


市立函館図書館蔵「スミス、マリー之傳」

「会報」No.18 2001.10.24

投稿者 hakodate_russia : 21:54 | コメント (0)

A.T.マンドリク著「ロシア極東の漁業史1927年-1940年」の要約の試み(続)

A.トリョフスビャツキ

 ソ連国内で新経済政策(ネップ)が実施されていた1920年代には、日本人漁業者は北洋漁業の独占的立場を持ち、露領漁業も続けられていた。増えつつある日本の影響に対応するため、ソ連側は共に利用する漁場から日本人漁業者を排除できないならば、せめて彼らの活動に対する統制を強めるために、利権という方法を選んだ。
 利権方式を取り入れた極東漁業の移行計画は1927年から実施された。その時ロシア連邦人民委員会議はダリソヴナルホーズ(極東国民経済会議)宛の3月23日付けの手紙で、日本企業が新しいソ日漁業条約案に応じて特別の利権条約を締結しなければならないことが義務付けられると知らせた。ロシア連邦農業人民委員部の1927年11月29日付けの「ダリルイバ」宛の手紙では、漁業に関する外国人租借者との交渉は特別の許可がなければ行わないこと、日本人租借者との親密な付き合いを避けて十分注意することなどが指摘された。
 1928年1月23日にソ日漁業条約が調印された。新条約において、ソ連側は、日本人漁業者に河川及び入り江を除くソ連極東水域(日本海、オホーツク海、ベーリング海沿岸)で水産動植物(オットセイ、ラッコを除く)を捕獲、採取して、加工する権利を与えた(第一条)。毎年2月にウラジオストクで漁区の取得のための競売が行われることになった。
 様々な税や漁区の租借料として日本人租借者は相当の金額を支払った。例えば、1929年に日本人租借者によって支払われた金額は、ソ連極東の国民経済への産業投資総額を14.28%に増加させた。その後ソ連水域から日本人租借者の排除とともにその金額も次第に減少した。
 1928年にソ連政府は極東地域に残っていた個人漁業者に対しダリバンク(極東銀行)に800万ルーブルのクレジットの借り入れを命じた。日本側のかなりの支援を受けていた大物の個人漁業家M.M.リューリやA.G.ルビンステインですらその借り入れ、すなわち国家への依存を強いられた。政府の狙いは個人漁業者を支援するよりは、彼らの活動を国家のコントロール下において、一歩一歩漁業から排除することであった。しかし、政治的な理由でそのことはカムフラージュされ、利権漁区への個人企業の急激な進出のように見せ掛けられた。
 ソ連極東漁業の自国化が進められる中で、以上に述べたように、ソ連側の漁区で働いた日本人漁業者や労働者の人数は1930年にピークの38,559人に達し、1931年に20,163人、1932年に20,447人、1933年に17,896人まで減少して、その後中止された。日本の利権企業に関しても、ソ日漁業条約の有効期間が切れた1936年以降、次第にソ連側の圧迫を受けながら最終的に1944年末にソ連水域から引き上げた。
 当時の両国漁業交流から明らかなのは、双方は漁業分野において競争相手であり、自国の外交やマスコミを総動員しながら最大利益を得ようとした。日本との協力に関しては、ソ連政府の立場は二重性を持っていた。一方ではソ連極東漁業を増強するために、日本の漁業技術や漁業労働力が一時的便法であったが、他方では自給が可能になったらソ連水域から日本の漁業者を排除しようとした。全体としてみれば、当時ソ日関係におけるこのような問題を解決するのは殆ど不可能だった。

「会報」No.18 2001.10.24

投稿者 hakodate_russia : 21:52 | コメント (0)