2005年09月30日
ロシアとロシア人
工藤精一郎
隣りの大国ロシアのことは、日本では残念なことだが、ほとんど知られていない。そこで歴史上の大きな事件を瞥見しながら、ロシアとロシア人について考え、ロシア理解の一助としたい。
まず建国伝説だが、原初年代記によると、西暦850年頃ドニェプル河畔のキエフ付近に東スラブ族(現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)が農耕を営み、水路ビザンチンと交易を行っていた。ところが収穫期になるとスキタイ、ホロペツ等の遊牧民に襲われるし、交易船が掠奪される。これが毎年のようにくりかえされた。そこで長老たちが集ってワリャーグ人(ヴァイキング)を招くことにした。「わが国は広大であり豊かであるが、秩序がない。来りて君臨し、われらを領せよ」それを受けて武将リューリクが手勢を率いて乗りこみ、請われるままに支配し封建国家のようなものを作り上げ、遊牧民の襲撃を防ぎ、交易船の安全を守った。これがキエフ公国リューリク王朝の成立である。
ここから考えられるのはロシア人は本来農耕民族で強者に支配されるのを望むということで、これがツァーリ幻想となるのである。
次にキリスト教の受容である。四代目ウラジーミル聖公の時代になると、封建国家の宿命で、国が大きくなるにつれて秩序が乱れはじめて、国民を団結させる精神的中心が必要となった。そこで聖公はビザンチンからキリシア正教を入れて国民の精神のよりどころとし、ビザンチンの王女と結婚して自分の権威を高めた。聖書普及のためキリール文字が入り、キリスト教文化と共にロシア文化発展の基礎となった。こうして国が大きく飛躍しようとしたまさにその時に大きな不幸に襲われ、キエフ公国は壊滅した。
1230年代のモンゴルの襲来である。強力な騎馬軍団モンゴルの前に平原国家キエフ公国はひとたまりもなかった。モンゴルは1243年キプチャク汗国をつくって居座り、以後240年間にわたりロシアを支配し、しぼり上げることになる。この間にロシア人がロシア人として生き残ることができたのは、モンゴルが宗教には手をつけなかったことと、ロシア人の強い忍耐心ニチェヴォの精神があったからにほかならない。
モスクワ公国。北の森林地帯に逃れたリューリク一族のイワン・カリータがモスクワ河の畔にクレムリン(城塞)を造り、モンゴルに恭順な態度をとりながら、しだいに勢力をのばし、モスクワ公国を築き上げた。イワン三世の時代(1460年代)にはもうモンゴルに対応し得る国力に達していた。そしてビザンチンがオスマントルコに滅ぼされたので、皇帝の姪ソフィアと結婚し、ギリシア正教の総本山をモスクワに移し、モスクワを第三のローマと称し、ビザンチン皇帝の紋章双頭の鷲を自分の紋章とした。1480年イワン三世はついにロシアをモンゴルの桎梏から解放した。このモスクワ公国もイワン四世(雷帝)の死をもって幕を閉じることになる。そして15年におよぶ空位の内乱時代が始まる。これはツァーリ幻想、民衆の力の大爆発、強烈な国土愛などロシアの要素が表面に出た史上最も興味ある時代であるが、1613年ロマノフ王朝の成立をもって終った。
ロマノフ王朝は徳川幕府と重なり、約300年つづくことになる。大きな流れは、ピョートル大帝とエカテリーナ女帝の西欧化政策によって、その恩恵に浴した貴族知識階級と元のままの民衆に二分化され、これがロシア発展に大きな歪みを生み出すことになるのだが、ここでは抑圧された民衆の大爆発について考えてみることにする。これがおもしろいことに100年周期で発生するのである。
まず1670年のステンカ・ラージンの乱、当時はスウェーデンとの戦争が国民生活を圧迫し、忍耐は限界まできていた。ドンコサックのステンカ・ラージンの反乱に農民暴動が合流し、国を二分する農民戦争となった。スローガンは「全ロシアを政府の役人と農奴制から解放する。」この反乱は2年間つづいた。
次は1770年のプガチョフの反乱。この頃もロシア・トルコ戦争の重圧で民衆の忍耐は限界をこえていた。ドンコサックの首領プガチョフが反乱を起し、ピョートル三世を名乗って農民解放を叫び、農民暴動が合流し、2年間にわたる農民戦争となった。エカテリーナ女帝はピョートル三世の皇后だったが、夫を排して女帝となった。ピョートル三世は難を逃れて民衆の中に生きているという噂が民衆の間にひろまっていた。ツァーリは神に命じられた存在で民衆を守ってくれる。悪いのは取巻きの役人どもだ。これが民衆のツァーリ幻想である。
1861年アレクサンドル二世は、時代の流れを見て、上からの農奴解放を行った。これがガス抜きとなって100年周期は30年ほどずれた。そして1905年に日露戦争が契機となって第一回革命が起ったが、これは不完全燃焼となって、1917年第一次世界大戦を機に十月革命という大爆発が起った。
こう見てくるとロシアの歴史は、建国以来培われたニチェヴォの精神が忍耐の限界を越えると強者による救いを夢想して大爆発を起す。この大きな抑圧を大きな爆発のほぼ百年周期の繰返しであったことがわかる。これがロシアとロシア人の来し方である。
(2001年11月10日の講演会より)
「会報」No.19 2002.1.22 2001年11月10日の講演会より
投稿者 hakodate_russia : 22:01 | コメント (0)
ガリーナ・アセーエヴァさんに再会して
小山内道子
編集者より
小山内さんには以前「会報」13号に「故国に帰った白系ロシア人の運命―ガリーナ・アセーエヴァさんに出会って―」を書いていただいたが、これはその続報である。ガリーナ(愛称:ガーリャ)さんは、昭和21年頃まで函館に暮らしていた白系ロシア人ズヴェーレフ家の次女である。
一家の日本での生活やその後ロシアに帰国したことなどは、13号で紹介されている。
「註」登場人物について
*ヴェーラ:ヴェーラ・アファナーシエヴァ、東京に生まれ、1956年ソ連に帰国。晩年のブブノワさんとレニングラードで暮らし、お世話した。
*ブブノワさん:1922年、日本に嫁いでいた妹のヴァイオリニスト小野アンナを訪ねて来日した画家。長年早稲田大学でロシア文学を講じ、1958年帰国した。
*ナターシャ:ナターリア・マクシモヴァ。最晩年のブブノワさんと交流があった。
ロストフ在住の長兄ミハイル(ミ-シャ)
昨年9月半ば思い立ってモスクワへ出掛けた。ちょうど2年ぶりのモスクワは、予想外に暖かくお天気も良かった。「バービィエ・レータ(秋の小春日和)が今年はずいぶん長く続いているんですよ」と皆嬉しそうに話していた。このお天気のせいか意外なほど市民の表情も明るく、落ちついていた。「アメリカの悲劇」、「カミカゼテロ」は話の前置きとしては話題になっていたが、やはり「遠い国」のことで、深刻さは感じられなかった。ドル安になるのは困ると不安がる友人もいたが、下がったドルはすぐに持ち直した。
一昨年、ほんとうに思いがけなく出会うことが出来たガーリャさん(以下名前の敬称略す)には会いに行くかどうか迷っていた。というのはお姉さんのターニャが昨年9月急逝してしまったからである。ズヴェーレフ家の長女として日本のことを一番良く覚えており、北海道から来る私にとても会いたがっていたということだったのに。
ガーリャに電話してみたら留守である。次にかけたガーリャの友人ヴェーラによると、ガーリャはお兄さんのミーシャを訪ねてロストフ・ナ・ドヌーに行っているが、数日後には帰宅するはずとのこと。念のためお兄さんの電話を教えてもらう。
2、3日経ってロストフに電話すると、ガーリャはその日の早朝の汽車で帰路についた後だった。ペテルブルグまで36時間もかかるそうである。良い機会だと思ってミーシャとおしゃべりした。日本のことはいろいろ覚えているよと、日本語で挨拶の言葉などを使ってみせた。思い出すのは函館の五稜郭、湯の川、カラリョフ家の息子たちと遊んだことなど。ズヴェーレフ夫妻はカラリョフ家の子どもたちの洗礼時に代父母を勤めたほどの親しい間柄だった。
ミーシャは2年生からは東京のプーシキン学校に行ったが、上野公園、菊人形の展覧会がなつかしいという。その後12歳で大連に行った。今ロストフには昔日本に住んでいた人たちが数人居て、折りにふれて集まっているという。10数分の電話でのおしゃべりだったが、日本とつながる小さな社会がロストフにもあることが分かって、いつの日か訪ねてみたくなった。
ペテルブルグで
数日経ってガーリャに電話すると、前もって訪ロを知らせずに今頃電話してくることに不満げな様子が伝わってきた。会いに行かないのは「信義にもとる」ような気がして、ともかくその週末ペテルブルグへ出掛けた。ナターシャは新しい仕事で忙しい中ガーリャと連絡を取り合ってホテルに会いにきてくれた。とりあえずカフェで話したが、話題はまず4月に開かれた「日本週間」のことで、日本からコーラスグループが訪れたりしたが、行事のメインとなったのはナターシャの“「日本」百景”展だったのだ。そのカタログをいただいたが、初めてまとまった形でみるナターシャの絵の数々は「最も日本らしい日本」ともいうべき風景や人物像を表現していてとても素晴らしいものだった。
ナターシャの言うように、ヴェーラを含めた人の輪、日ロの交わりはブブノワさんから枝葉を広げたものなのである。
ナターシャとは別れて、便利だからとガーリャの案内で亡くなった姉のターニャの家へ行った。今は娘のオーリャの家族が住んでいる。オーリャは仕事に出ていて9歳の息子ダーニャが留守番をしていた。
今回の訪問で一番感激したことだが、長女のターニャが管理していたという日本時代のアルバムをたくさん見せていただいたことである。今では骨董品としても価値がありそうだが、表紙が日本の名所の蒔絵で飾られたオルゴール付きの立派なアルバムに家族の歴史を刻む写真の数々が収められていた。
ロシア人が皆で集まった時、夏に川湯に保養に行った時、ターニャが松風幼稚園に通っていた時…、ここに1枚お借りしてきたのは、家族で休日によく遊びに行ったという大沼公園でのスナップ(1938年頃)である。当時のロシア人は条件に恵まれなくとも、努めて生活をエンジョイしていたことが分かる。この次はアルバムに沿って具体的な詳しい話を聞かせてもらえるよう準備して訪問したい。
午後にはバスを乗り継いで訪ねてきてくれたヴェーラも加わって、4人でガーリャが腕を奮ってくれた昼食を楽しんだ。ヴェーラといえば、去年半世紀ぶりに偶然消息が分かった聖心女学校時代の親友に招かれて初夏3ヵ月もアメリカ周遊の旅をしてきたそうで、いきいきと元気そうだった。そういう幸運とは無縁のガーリャはちょっと気の毒にも思えた。誠意をもって今後も交流を続けていくことが幾分かでもガーリャに喜びをもたらしてくれたらと願いつつ、再会を期して別れた。
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大沼でのズヴェーレフ一家 前列左からガーリャ、ターニャ、アリョーシャ、ミーシャ。後列は父クジィミーン、祖父テレンチイ、ナージャを抱いた母ダーリィア
「会報」No.19 2002.1.22